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悲劇の皇子、護良親王の足跡を巡る旅路―鎌倉、吉野、そして魂の安息地へ

歴史の大きなうねりの中で、鮮烈な光を放ちながらも、志半ばで散っていった人物がいます。後醍醐天皇の皇子であり、鎌倉幕府打倒の立役者の一人、護良親王(もりよししんのう)。武勇に優れ、「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれながら、父が始めた「建武の新政」の波にのまれ、非業の最期を遂げた悲劇の皇子です。

彼の生涯は、まさに光と影。その激しい生き様と悲しい結末は、700年近い時を経た今もなお、私たちの心を強く揺さぶります。なぜ彼は、父に疎まれ、弟である足利直義に命を奪われなければならなかったのか。その無念の魂は、今どこに安らぎを見出しているのでしょうか。

今回は、そんな護良親王の短いながらも濃密な生涯を辿る旅へとご案内します。彼が祀られる鎌倉の社から、倒幕の兵を挙げた吉野の険しい山々、そしてその首が葬られたと伝わる伝説の地まで。歴史の表舞台だけでなく、その裏側に息づく人々の想いや、旅の途中で出会えるささやかな美味にも触れながら、親王の魂の軌跡を追ってみたいと思います。この旅は、単なる史跡巡りではありません。一人の人間の理想と絶望、そして彼をめぐる人々の愛と悲しみの物語に触れる、心の旅路となるはずです。

さあ、まずは親王終焉の地、鎌倉から始めましょう。

護良親王が打倒を目指した鎌倉幕府の栄枯盛衰の歴史にも想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

目次

建武の新政の光と影―鎌倉宮に祀られた悲劇の皇子

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武家の古都・鎌倉。鶴岡八幡宮の喧騒から少し東へ歩みを進めると、木々に囲まれた静かな空間が広がります。そこに鎮座するのが、護良親王を御祭神とする鎌倉宮(かまくらぐう)です。通称は「大塔宮(だいとうのみや)」。この呼称は、親王が比叡山延暦寺で天台座主を務めていた際に住まわれていた「大塔」から由来しています。

鎌倉宮の創建と護良親王の物語

意外に感じられるかもしれませんが、鎌倉宮の歴史は決して古くはありません。創建は明治2年(1869年)で、明治天皇が建武の新政における護良親王の功績をたたえ、その忠誠心を後世に伝えるために建立を命じたのです。つまり、鎌倉時代から存在する他の神社や寺院とは異なり、近代に国家の意思により建立された、特別な意義を持つ神社といえるでしょう。

では、なぜこの地が選ばれたのか。それは、こここそが護良親王の最期の地であったからにほかなりません。かつてこの地には東光寺という寺があり、その一角にあった土牢に親王は足利直義(足利尊氏の弟)によって約9か月ものあいだ幽閉されていました。そして建武2年(1335年)、「中先代の乱」の混乱のさなかに足利直義の命を受けた淵辺義博(ふちべのよしひろ)により、この場所で命を落とされたのです。享年28歳。若くして、あまりにも無念な最期でした。

明治天皇は親王の無念を慰め、その功績を称えるため、悲劇の舞台を聖なる地へと変えたのです。鎌倉宮の境内を歩くと、明治期に整えられた清々しい空気のなかに、凛とした気配と同時に悲しみが感じられるのは、このような背景があるためかもしれません。

鎌倉宮の見どころ―獅子頭守と土牢

鎌倉宮の境内は緑に包まれ、静かで落ち着いた雰囲気が漂います。鳥居をくぐり石段を上ると、まず目に入るのが拝殿です。派手さはないものの、質実剛健な佇まいがあり、武人であった護良親王を祀るにふさわしい重厚感を感じさせます。

参拝を終えたら、ぜひ授与所にも足を運んでみてください。鎌倉宮のシンボルと言えるのが「獅子頭守(ししがしらまもり)」です。これは親王が戦の折、兜の中に獅子頭の小さな木像を忍ばせ、自分の身代わりとして勝利を祈願したという逸話にちなんでいます。獅子は邪気を飲み込み幸運をもたらすとされ、厄除けや開運の御守として非常に人気です。様々な大きさや形が揃っており、見ているだけでも楽しいものです。旅の記念品や大切な人への贈り物に、これほど物語性あふれる品は珍しいでしょう。

そして、鎌倉宮を訪れた際に絶対に見逃せないスポットが、拝殿の裏手にある「土牢(どろう)」です。拝観には別途料金が必要ですが、親王が味わったであろう絶望と孤独を実感するためにも、ぜひ訪れていただきたい場所です。

【土牢拝観の実践ポイント】

  • 拝観受付: 授与所にて拝観予約が可能です。受付時間は午前9時30分から午後4時までですが、季節や催事により変動することがあるため、訪問前に鎌倉宮公式サイトで確認されると安心です。
  • 拝観料: 大人一人300円です(2024年5月現在)。小銭を準備するとスムーズです。
  • 注意点: 土牢は岩盤を掘り抜いて作られており、非常に狭く薄暗い空間です。足元も決して安全とは言えません。歩きやすい靴、できればスニーカーなどでの訪問をおすすめします。内部での写真撮影は許可されていますが、フラッシュは禁止されており、他の拝観者の迷惑にならないよう配慮しましょう。親王の無念に思いを馳せ、静かに祈る時間として過ごしてください。

わずか四畳半ほどの広さしかないこの場所に、ほとんど光も届かなかったはず。親王は何を思い巡らせていたのでしょうか。後醍醐天皇への忠誠心、共に戦った仲間たちのこと、そして裏切った者たちへの憤り――様々な想いが渦巻いていたことでしょう。この狭い空間に立つと、歴史の教科書で知る出来事が生々しい現実として胸に迫ってきます。

鎌倉宮での過ごし方と御朱印について

鎌倉宮での参拝は、一般的な神社の作法である二礼二拍手一礼で行います。静かな心で、この国の未来を案じ、戦い散っていった若き皇子の御霊に祈りを捧げましょう。

また、御朱印集めをされている方にとって、鎌倉宮は特別な場所です。ここでいただける御朱印にはシンボルの獅子頭の印が押されており、非常に印象的です。通常の御朱印のほかに、季節や祭事に応じた限定御朱印も頒布されることがあります。

【御朱印取得の実践ガイド】

  • 受付場所・時間: 授与所にて午前9時から午後4時30分まで受け付けています。
  • 初穂料: 通常は一体500円です(2024年5月現在)。
  • 御朱印帳: ご自身の御朱印帳への記帳はもちろん可能ですが、鎌倉宮オリジナルの御朱印帳も用意されています。獅子頭をモチーフにしたデザインなど魅力的なものが多く、新調されるのもおすすめです。
  • 注意事項: 土日祝日や観光シーズンは授与所が混雑しがちです。特に限定御朱印が授与される期間中は行列ができることもあるため、余裕を持って訪れるのが望ましいでしょう。また、状況によっては書き置き(あらかじめ紙に書かれたもの)での対応となる場合もあります。

鎌倉宮は、単に美しいだけの神社ではありません。日本の歴史の大きな転換期に理想を胸に抱き、悲劇的な運命に散った一人の皇子の記憶が、いまなお鮮明に息づく場所なのです。

幽閉と最期の地―東光寺跡と理智光寺

鎌倉宮の境内は、護良親王の最後の足跡を今に伝えています。しかし、この悲劇の物語はこの場所だけにとどまらず、親王の死にまつわる品々や伝承は周辺の寺社にもひっそりと息づいています。

悲劇の現場、東光寺跡

前述の通り、現在の鎌倉宮の敷地はかつての東光寺の跡地です。この寺は、足利氏と深い関わりのあった寺院でした。建武の新政期において、武士の代表としての足利尊氏と、天皇親政を推し進める後醍醐天皇、その皇子である護良親王は、次第に埋めがたい溝を生み出していました。特に倒幕の大功労者であり、軍勢を率いる才覚に優れた親王は、尊氏にとって最大の脅威でした。

その結果、親王は謀反の疑いをかけられ、父である後醍醐天皇にも見放される形で捕らえられ、鎌倉の足利直義のもとへ送られます。そして幽閉されたのが、この東光寺の土牢だったのです。

建武2年(1335年)、信濃で北条氏の残党である北条時行が挙兵し、鎌倉へ迫る「中先代の乱」が勃発。この混乱に乗じ親王が脱走する可能性を恐れた足利直義は、家臣の淵辺義博に殺害を命じます。土牢の中で親王は抵抗も叶わず、その短い生涯を閉じました。伝えられるところによれば、余りの無念に淵辺義博の太刀に噛みつき、刃が折れたとも言われています。この逸話は、親王の壮絶な最期と不屈の魂を象徴しているかのようです。

介錯の太刀と伝わる理智光寺

鎌倉宮から谷戸の小道を少し進むと、理智光寺(りちこうじ)という小規模ながら重要な寺があります。現在は静かな佇まいですが、護良親王にまつわる貴重な伝承がここに伝えられています。

この寺には親王の殺害に使われたとされる太刀が寺宝として伝わっていました。その太刀は、源氏の名宝として知られる「鬼丸(おにまる)」。天下五剣の一つに数えられる名刀です。足利家に伝わっていたこの太刀が、なぜか親王の悲劇に関わる道具として使用され、その後理智光寺に納められました。現在、「鬼丸」は宮内庁の所蔵となっていますが、当時の悲しみは今なおこの寺に息づいているように感じられます。

理智光寺は普段、内部を見ることはできませんが、その門前に立ち手を合わせるだけでも、歴史の重みを感じ取ることができるでしょう。鎌倉宮の参拝に合わせて、ぜひ足を伸ばしてみてください。

鎌倉グルメ散策―歴史の合間に味わう名物

少し重い歴史を味わったあとは、この地ならではの味で心をほどいてみましょう。食品商社に勤める身としては、旅先での食の楽しみは外せません。鎌倉宮周辺は観光地の中心からやや離れているため、落ち着いた雰囲気の店が多いのも魅力です。

鎌倉宮の隣には「お休み処」があり、ここでは抹茶や甘酒、名物の「厄除けだんご」を味わえます。散策で疲れた足を休めつつ、木々の緑を眺めながらひと息つくひとときは格別です。特に香ばしく焼き上げられた団子は素朴で心に沁みる味わい。護良親王の無念に思いを馳せた後の甘味は、不思議と優しい気持ちを呼び起こします。

しっかり食事をしたいときには、周辺に点在する古民家を活用したカフェやレストランがおすすめ。鎌倉野菜をふんだんに使ったランチや、こだわりの手打ち蕎麦など、高品質の料理が楽しめます。歴史ある街並みに溶け込む空間でいただく食事は、旅の思い出をより深いものにしてくれるでしょう。

お土産も旅の楽しみの一つ。鎌倉といえば鳩サブレーが有名ですが、もう少し通好みの品を探してみるのも良いでしょう。例えば老舗漬物店「あきもと」の季節の野菜を使った色鮮やかな漬物は、ご飯のお供にもお酒の肴にもぴったりです。また、地元産のちりめんじゃこや海苔を使った佃煮もおすすめです。保存の効くこうした食品は、旅の思い出を食卓で味わえる素敵な贈り物となります。歴史散策の合間に、ぜひ地元の食文化にも触れてみてください。

南朝の拠点、吉野の山々へ―倒幕の烽火を上げた地

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護良親王の生涯を語る際に、鎌倉と並んで欠かせない場所が奈良県の吉野山です。ここは親王が武将としての才能を最も発揮し、倒幕運動の拠点となった場所です。では、なぜ数ある地の中から親王は吉野を選んだのでしょうか。

なぜ吉野を選んだのか?

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の企てが発覚し、天皇は捕らえられ隠岐へと流されました(元弘の変)。この時、俗世に帰っていた護良親王は幕府の追手を逃れ、各地を転々としながら倒幕の好機をうかがっていました。

そうして親王が最終拠点に定めたのが吉野の地です。古くから山岳信仰や修験道の聖地として知られる吉野は、険しい山並みが天然の要害となっていました。また、修験道の山伏たちは全国に広がるネットワークを持ち、情報収集や伝令に優れていたため、強力な味方となったのです。

親王はこの吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)に籠もり、全国の武士や豪族に「令旨(りょうじ)」を送りました。「天皇の皇子である私がここにいる。幕府を倒すために立ち上がれ」との呼びかけに応えて、楠木正成や赤松則村らが次々に挙兵。吉野からの倒幕の火はやがて全国に広がり、鎌倉幕府崩壊を導く大きなうねりとなったのです。

吉野に残る護良親王ゆかりの地を巡る

現在の吉野山は「一目千本」と称される桜の名所として知られ、また世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を成し、多くの観光客で賑わいます。しかし、その華やかな景色の背後には、護良親王らの激しい戦いの歴史が刻まれているのです。

  • 金峯山寺 蔵王堂(きんぷせんじ ざおうどう)

吉野山の象徴ともいえるのがこの蔵王堂で、東大寺大仏殿に次ぐ規模の木造建築です。その壮大な姿は訪れる者を圧倒します。護良親王はここを幕府軍の大軍と戦う本陣とし、四方から襲いかかる敵に対し地の利と智略を生かして奮戦しました。堂内に祀られるご本尊、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)の巨大な青い像もひと見の価値があります。その迫力は俗世の煩悩や迷いを吹き払うかのようです。

  • 吉水神社(よしみずじんじゃ)

蔵王堂から南に少し歩いた場所にある吉水神社は、南朝の歴史を語る上で欠かせない重要なスポットです。元は吉水院という修験道の僧坊でしたが、隠岐を脱出した後醍醐天皇がここを臨時の皇居(行宮)と定めました。つまり、建武の新政後に足利尊氏に京を追われた南朝の拠点となった場所です。護良親王も父帝と共にここで過ごした期間がありました。書院は日本最古の書院建築とされ、後醍醐天皇の玉座の間や、源義経が潜伏したと伝わる間、さらには豊臣秀吉が花見の本陣に使った間など、多くの歴史的な人物の足跡が重なっています。このように一棟の建物に多彩な歴史が息づく場所は全国でも稀有です。

  • 吉野の桜と護良親王

吉野の桜は単なる観賞用ではありません。元来は修験道のご神木として、信者が一本一本祈りを込めて植えてきたものです。親王がこの地で戦っていた頃も、春には変わらぬ美しい桜が咲き誇っていたはずです。激しい戦闘の合間に、親王はこの桜を見つめて何を想ったのでしょうか。京の故郷、父帝の安否、あるいは未来への希望。吉野の桜には、その美しさとともに歴史の哀しみや人々の祈りが深く染み込んでいるのです。

吉野を訪れるための実用ガイド

吉野山は広大で見所が多く、効率よく安全に楽しむには事前の準備が不可欠です。

【吉野山散策の実践ガイド】

  • アクセス
  • 主なアクセス手段は電車で、近鉄吉野線の終点「吉野駅」が玄関口です。
  • 駅からは「吉野山ロープウェイ」に乗り、山麓の下千本エリア(千本口駅→吉野山駅)へ向かうのが一般的です。このロープウェイは現役の日本最古のもので、乗車自体が記念になります。
  • ロープウェイの吉野山駅からは、中千本エリアの蔵王堂や上千本エリアの吉水神社へ向かうバスが運行されていますが、体力があるなら歩いて登ることも可能です。坂道が続くため覚悟は必要ですが、途中の風景や店を楽しみながらの散歩もまた一興です。
  • 注意点: 桜の見頃(例年4月上旬〜中旬)は国内外から大量の観光客が押し寄せ、電車やロープウェイ、バスは大混雑し、周辺道路もひどい渋滞になります。この時期に訪れる場合は早朝出発など余裕をもった計画が必須です。可能なら平日を狙うか、桜以外の時季(新緑や紅葉も素晴らしい)を選ぶことをおすすめします。吉野山観光協会の公式サイトで、開花情報や交通規制を必ず事前に確認しましょう。
  • 服装・持ち物
  • 吉野山は名前の通りの山岳地帯です。散策路は舗装されている部分が多いですが、坂や石段が続きます。必ず履き慣れたスニーカーやウォーキングシューズで訪れて、ヒールのある靴は避けてください。
  • 山の天候は変わりやすいので、晴れていても急な雨や気温低下に備えて、折りたたみ傘や羽織物(ウィンドブレーカー等)を携帯すると安心です。
  • 特に夏季は水分補給が大切です。ペットボトルを一本カバンに入れておきましょう。自動販売機は各所にありますが、混雑時は売り切れの可能性もあります。
  • 食事とお土産
  • 吉野を訪れた際にぜひ味わいたいのが、地元名物の「葛(くず)」を使った料理です。なめらかな食感の「葛きり」や「葛もち」は特におすすめです。
  • また、「柿の葉寿司」も忘れてはなりません。酢飯に鯖や鮭の切り身をのせ、柿の葉で包んだ押し寿司は爽やかな香りが食欲をそそります。散策の合間に眺望の良い場所で味わうのも良いですし、お土産として持ち帰るのにも最適です。
  • お土産には葛菓子が定番で、その他には地元の日本酒もおすすめです。吉野の清らかな水で醸した酒は旅の夜を豊かに彩ってくれるでしょう。

吉野の山々を歩くことは、親王が武将として燃えたぎった息吹に触れる旅でもあります。鎌倉での悲劇とは対照的に、希望と闘争に満ちた彼の姿がそこに息づいているのです。

首級(みしるし)の行方―親王の魂が眠る伝説の地

鎌倉の土牢で非命の死を遂げた護良親王。その遺体は竹藪に放置されたと伝えられています。では、その首(首級)はその後、どのような運命をたどったのでしょうか。正史には明確な記録が残されていないものの、その空白を埋めるかのように日本各地には親王の首塚とされる場所や、それにまつわる悲話が数多く伝わっています。

ここからは、親王の魂の行方を辿りながら、伝説が息づく土地を訪ねてみましょう。

鎌倉から遠く離れた地へ―首塚の伝承

親王の首の行方については諸説が存在します。鎌倉市内に埋葬されたという説、側近が首を持ち去ったという説、そして最も劇的なのが、親王を深く慕った女性がその首を抱いて遠くへ逃れたというものです。

この伝説の主人公であるのが、親王の愛妾・雛鶴姫(ひなづるひめ)です。彼女の悲しい物語とともに、親王の首塚伝説で最も有名な場所が、山梨県都留市にあります。

愛妾・雛鶴姫の哀しき物語と雛鶴神社

都留市秋山地区。桂川の支流・秋山川が流れる深い山間に「雛鶴神社(ひなづるじんじゃ)」が静かに佇んでいます。

伝承によると、雛鶴姫は護良親王が鎌倉で討たれたと知るや、従者と共に親王の首を密かに奪い返し、鎌倉から逃亡しました。追手をかわし険しい山道を越え、ついに辿り着いたのがこの秋山の地でした。しかし長い旅の疲れと深い悲嘆によって、姫はこの地で病に倒れ、命を落としたといいます。

村人たちは姫の親王への忠誠と深い愛情に感銘を受け、親王の首と姫の亡骸を丁寧に葬り、社を建てて祀りました。これが雛鶴神社の起源と伝えられています。

境内には親王の首を祀ったとされる「御首級石(ごしゅきゅうせき)」が今もひっそりと苔むして残っています。また近隣には、姫が化粧をしたと伝わる「化粧滝」や、姫が亡くなった場所とされる「産千代(さんぜんよ)の滝」など、伝説にまつわるスポットが点在しています。

この地を訪れると、歴史の真偽を超えて、愛する人を失った一人の女性の深い悲しみと、それを慰め語り継いできた地域の人々の温かい想いが伝わってくるようです。都心からはやや距離がありますが、親王の物語に深く触れたい方にはぜひ訪れていただきたい場所です。

【訪問者向けの実用情報:雛鶴神社】

  • アクセス: 雛鶴神社周辺は公共交通機関でのアクセスが非常に不便です。最寄り駅であるJR中央本線「上野原駅」や富士急行線「都留市駅」からも遠く、バスの便も限られています。そのため、基本的には車での訪問をお勧めします。
  • ルート確認: 車での来訪時も、事前に地図アプリ等でルートをしっかりと確認してください。山間の道は狭く道標も少ないため注意が必要です。
  • 事前確認: 訪れる前に、都留市観光協会などの公式ウェブサイトで最新の道路状況や現地情報を確認しておくと安心です。

もう一つの伝承地―静岡県浜松市(旧引佐町)・井伊谷宮

親王の首塚にまつわる伝説は山梨県だけにとどまりません。もう一つ有力な伝承地として知られるのが、静岡県浜松市北区引佐町にある井伊谷宮(いいのやぐう)です。

この神社では、護良親王の皇子である尹良親王(ゆきよししんのう)が御祭神として祀られています。伝説によれば、尹良親王が父・護良親王の首をこの地に運び、手厚く葬ったと伝えられています。境内には「御首塚(みしるしづか)」と呼ばれる首塚が大切に祀られています。

井伊谷はNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の舞台としても知られる、井伊氏ゆかりの地です。なぜこの地に親王の皇子が逃れてきたのか。南北朝時代の動乱の中で、南朝側に属した井伊氏が皇子を匿い、支えた歴史的背景があります。

ここを訪れると、護良親王の悲劇が子孫の世代にまで影響を与え、各地の豪族を巻き込みながら長期にわたって続いた南朝の苦難の歴史の一端に触れることができます。歴史とは点と点が線で結ばれながら壮大な物語となっていくものだと改めて実感させられます。

これらの首塚伝説はあくまで「伝説」であり、史実として確証されたものではありません。しかし、これほど多くの伝承が各地に残っているということ自体が、護良親王という人物がいかに人々の心を惹きつけ、同情を集めたかの証でもあります。人々は非運の死を遂げた若き皇子の魂がどこかで安らかに眠っていることを願い、その祈りが数々の伝説を生み出したのでしょう。

旅の終わりに想う、護良親王という生き方

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鎌倉の静かな神社から始まり、吉野の険しい山岳、そして山梨の深い谷間に佇む社へ。護良親王の足跡を追う旅は、私たちに多くの語りかけをもたらしてくれます。

彼は天皇の皇子として生まれながら、僧侶として、さらに武将として、激動の時代を駆け抜けました。父・後醍醐天皇が掲げた理想である「建武の新政」の実現に向けて、誰よりも熱く戦い、数々の功績を残しました。しかし、その純粋で真っ直ぐな情熱は、新たな時代の複雑な政治の渦の中で、あまりにも危険な存在となったのです。

武士の時代を終わらせ、天皇を中心とする世の中を取り戻そうとした親王。一方で幕府を倒した最大の功労者であり、武士たちの支持を集めた足利尊氏。この二人の対立は避けがたいものだったのかもしれません。そして悲しいことに、後醍醐天皇は、強大な力を持つ尊氏を抑えるため、自らの息子である護良親王を見捨てるという残酷な決断を下しました。

もし親王がもう少し政治的に立ち回ることができていたなら。もし後醍醐天皇が最後まで息子を信じ続けていたなら。歴史にタラレバは禁物と言いますが、そう考えずにはいられません。

しかし彼の生き様は、単なる「敗者の物語」では終わりません。自身の信念を貫き、たとえ裏切られようとも最後まで誇りを失わなかったその姿は、700年を経た今も私たちの心に確かな灯をともします。それは理想を追い求め、それに生きることの尊さと厳しさを教えてくれているかのように感じられます。

今回訪ねた場所は、それぞれ親王の人生の異なる側面を映し出しています。鎌倉宮は彼の功績と悲劇的な最期を後世に伝える「顕彰の地」。吉野山は彼の武将としての才覚が最も輝いた「闘争の地」。そして雛鶴神社や井伊谷宮は、無念の魂を慰め鎮めようとする「鎮魂」と「記憶の地」です。

これらの地を巡る旅は、ただ歴史書を読むだけでは得られない深い感動と発見をもたらしてくれます。土の匂い、風の音、木々のざわめき。すべてが遠い昔、この場所で生きた人々の息づかいを伝えているように感じられるのです。

歴史上の人物の足跡を辿る旅は、過去との対話でもあります。護良親王という一人の人間の激しい生き様に触れることで、私たちは自分自身の生き方や現代社会について改めて考える機会を得るのかもしれません。

次の休日には少し足を延ばして、歴史の物語が息づく場所を訪れてみてはいかがでしょうか。そこにはきっと、日常を忘れさせてくれる豊かで深い時間が流れていることでしょう。

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この記事を書いたトラベルライター

食品商社で世界中の食を探求してきました。旅の目的は「その土地でいちばん美味い一皿」に出会うこと!市場や屋台でのグルメハントが得意です。

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