MENU

奇岩と生きる人々。イランの洞窟村カンダヴァンで、雪と土と煙の匂いに溶ける旅

まるで異世界に迷い込んだかのようでした。灰色の空の下、雪をまとった円錐形の奇岩が、生き物のようにニョキニョキと天に向かって伸びています。その岩肌には、小さな窓や扉がくり抜かれ、いくつかの煙突からは、生活の証である白い煙が細く、長く立ち上っていました。ここはイラン北西部、タブリーズの街から南へ車を走らせること約1時間。山肌に家を掘り、700年以上もの間、人々が岩と共に暮らしを紡いできた村、カンダヴァンです。

私の旅の相棒は、いつも背中にある容量5リットルの小さなリュックサックだけ。服は現地で手に入れ、旅の終わりにはすべて寄付します。物を持たないからこそ、土地の空気を、人々の息遣いを、全身で感じることができるのです。この村に降り立った瞬間、頬を撫でたのは、ひんやりと澄んだ冬の空気と、湿った土、そして暖炉で燃える薪の混じり合った、懐かしくも力強い匂いでした。それは、悠久の時を刻んできた大地と、そこで生きる人々の温もりが溶け合った、カンダヴァンそのものの香りでした。

カンダヴァンそのものの香りでした。この地で得た感動は、きっとイランのタブリーズやテヘランといった都市が持つ多様な魅力を深く知る旅へと繋がるはずです。

目次

蜂の巣の名を持つ、火山岩の村

カンダヴァン(کندوان)という名前は、ペルシャ語の「カンドゥー(Kandou)」、すなわち「蜂の巣」を意味する言葉に由来すると伝えられています。遠くから村を見渡すと、円錐形の岩に無数の窓穴が開けられており、その姿がまるで蜂の巣のように見えることから名付けられたとのことです。この独特な景観は、かつて活動していたサハンド山の火山活動がもたらしたものです。数万年、あるいはそれ以上の長い年月をかけて火山灰や軽石が積もり固まった凝灰岩が、風雨によって浸食され、キノコのような形や尖った円錐形の岩山へと変貌したのです。

トルコのカッパドキアもこの種の地形で国際的に知られていますが、カンダヴァンの大きな特徴は、ここが単なる観光地や遺跡ではなく、「現在も人々が暮らし続ける生きた村」である点にあります。伝承によれば、その起源は13世紀、モンゴル帝国の侵攻を逃れた人々がこの岩山に身を潜めたことに遡るといいます。それ以来、700年以上にわたり人々は岩を掘り進め、家族を築き、世代を重ねて今日に至っています。

村に足を踏み入れると、複雑に入り組んだ坂道や階段が続きます。舗装されていない道は、雪解け水で泥濘んでいる箇所もあれば、凍結している場所もあるため、しっかりとした滑りにくい靴が欠かせません。私自身の旅では、現地で靴を調達し、タブリーズのバザールで買った頑丈なブーツが村の散策において頼れるパートナーとなりました。

岩をくり抜いて造られた家々は「カラン(Karaan)」と呼ばれ、それぞれが異なる形状を持ちます。岩の形に合わせてリビングや寝室、キッチン、さらには家畜小屋までもが巧妙に配置されているのです。驚くべきことに、多くの住居には電気が引かれ、水道も整備されています。伝統的な暮らしの中に現代の利便性が静かに溶け込んでいる様子からは、この村のたくましい生命力を強く感じ取ることができます。

ある家の前で足を止め、その独特な造形に魅せられていると、中から優しげな初老の男性が現れ、にこやかに手招きをして「チャイでも飲んでいかないか?」と誘ってくれました。ペルシャ語は理解できなくとも、その温かい表情と身振りで気持ちは十分伝わります。まさにこれこそが、旅の醍醐味と言える瞬間でした。

岩窟住居の温もりと、人々の素顔

招き入れられた「カラン」の内部は、外の厳しい寒さがまるで嘘のように、穏やかな空気に包まれていました。厚い岩盤が自然の断熱材となっており、夏は涼しく冬は驚くほど暖かいのです。壁には美しいペルシャ絨毯が掛けられ、床には厚手のキリムが敷き詰められていました。部屋の中央に置かれた小さなストーブの上では、ヤカンがシュンシュンと湯気を立てています。

男性はアフマドさんと名乗り、奥様が淹れてくれた熱々のチャイや角砂糖、そしてデーツ(ナツメヤシの実)を振る舞ってくれました。言葉は通じませんが、翻訳アプリを片手に、身振り手振りを交えて会話を楽しみます。彼の話によれば、この家は祖父の代から受け継がれてきたもので、子どもたちはタブリーズの街で暮らしているものの、週末には孫を連れて戻ってくるそうです。冬は雪が深いものの、この家の中は快適で静かなためとても気に入っているとのことでした。

彼の話から、カンダヴァンでの暮らしは単なる「伝統の保存」以上のものであり、彼らにとって最も合理的かつ快適な選択であり続けていることが伝わってきました。壁に埋め込まれた棚には家族の写真や日用品が並び、窓辺には可愛らしい花が飾られています。ここは博物館ではなく、人々の温かい営みが息づく「家」なのだと感じられました。

村を歩きながらあちこちから生活の気配が感じられます。家の軒先で絨毯を織る女性たちの姿。ロバに荷物を積み、ゆっくりと急な坂道を登る老人の背中。岩陰で元気に走り回る子どもたちの笑い声。観光客向けの土産物店もいくつかあり、村で採れたハチミツやドライフルーツ、手作りの工芸品などが並んでいます。

特にカンダヴァンのハチミツは名高く、サハンド山の高地に咲く野生の花々から集められた蜜は濃厚で香り高いと評判です。私も小さな瓶入りのハチミツを一つ購入しました。5リットルのリュックに収まる数少ないお土産です。それは単なる商品ではなく、この地の自然と人々の営みが凝縮された甘い記憶の結晶のように感じられました。

カンダヴァンの人々は内気ながらも非常に親切で、目が合うと「サラーム(こんにちは)」と笑顔で挨拶してくれます。ただし、旅行者として忘れてはならないのは、彼らの生活空間にお邪魔しているという敬意です。特に写真を撮る際は必ず一声かけ許可を得るようにしましょう。無断でカメラを向けることは、彼らの穏やかな日常を乱すことになりかねません。とりわけ女性や子どもを撮影する際には細心の注意を払う必要があります。

カンダヴァンへの旅路:準備と実践ガイド

この不思議な村に心を奪われ、「ぜひ自分も訪れてみたい」と感じた方に向けて、ここからは具体的な旅の準備やアクセス方法についてご紹介します。私のミニマリストスタイルはやや極端かもしれませんが、必要最低限の情報と心構えがあれば、誰でもこの素晴らしい体験を楽しむことができるでしょう。

イラン入国とビザについて

まず、日本国籍者がイランに入国するにはビザが必須です。主な取得方法は二つあります。

  • 渡航前に日本のイラン・イスラム共和国大使館でビザを取得する方法
  • 現地の国際空港に到着後、アライバルビザ(Visa on Arrival)を取得する方法

確実性を重視するなら、事前取得をおすすめします。申請の際はパスポートや顔写真、申請書のほか、イラン外務省が発行する「ビザ認証番号」が必要になることがあります。この番号は現地の旅行会社などを通じて入手するのが一般的です。手続き内容は変わることがあるため、必ず駐日イラン・イスラム共和国大使館の公式サイトで最新情報を確認してください。

私自身はテヘランのイマーム・ホメイニ国際空港でアライバルビザを取得しました。比較的スムーズに進みましたが、待ち時間が長くなる場合もあり、まれに発給が拒否されるケースもゼロではありません。十分な余裕をもって行動し、ホテルの予約確認書や簡単な旅程表など、渡航目的を証明できる書類を用意しておくと安心です。

  • 注意点: パスポートにイスラエルの入出国スタンプがある場合、原則としてイラン入国は認められません。該当する方はパスポートの更新など、事前に対策を講じる必要があります。

旅の服装:敬意と快適さの調和

イラン旅行で特に重要なルールの一つが服装規定です。とりわけ女性は、公共の場において「ヘジャブ」と呼ばれる髪を覆うスカーフの着用が義務付けられています。

  • 女性の服装規定(ヘジャブ):
  • 髪を覆う: ルサリー(スカーフ)やショールで髪を覆います。完全に隠す必要はなく、前髪が少し見えても問題ありません。現地では鮮やかな色合いのルサリーをお洒落に巻いている女性を多く見かけます。
  • 体のラインを隠す: お尻が隠れる長めのコート(マントー)やチュニックを着て、体のシルエットが目立たないようにします。下はロングパンツやロングスカートを組み合わせ、肌の露出は基本的に避けます。
  • 男性の服装規定:
  • 男性にヘジャブの着用義務はありませんが、ショートパンツやタンクトップなど過度に肌を露出する服装は控えましょう。長ズボン着用が基本となります。

これらの服装規定は窮屈に感じられるかもしれませんが、現地の文化や習慣に敬意を示す大切なマナーです。私のように持ち物を最小限にした旅でも例外ではありません。タブリーズのバザールで、美しい青色のルサリーとシンプルなマントーを一着購入しました。それは単なる衣服以上の意味を持ち、この土地で暮らす人々に溶け込むための“パスポート”のようなもの。身につけることで、地元の人たちとの距離が一気に縮まったのを実感しました。

タブリーズからカンダヴァンへのアクセス

カンダヴァン観光の拠点となるのは、東アーザルバーイジャーン州の州都タブリーズ(Tabriz)です。テヘランからは飛行機、夜行列車、長距離バスのいずれかでアクセス可能です。タブリーズからカンダヴァンまでは約50kmで、数種類の移動手段があります。

  • タクシーをチャーターする:

最もポピュラーで手軽な方法です。タブリーズ市内でタクシー運転手と直接交渉し、カンダヴァンまでの往復料金や現地での待機時間を含めて料金を決めます。料金は交渉次第ですが、半日程度のチャーターで日本円で数千円程度が相場(為替により変動あり)です。運転手が簡単な案内をしてくれる場合もあります。言語が不安な場合は、ホテルのフロントで手配を依頼するのが無難です。交渉は旅の楽しみの一つとも言えます。ペルシャ語での片言や電卓、笑顔があれば、良いドライバーに出会えるでしょう。

  • 公共交通機関を乗り継ぐ:

より冒険心を求める方には、乗り合いタクシー(サヴァリ)やバスを乗り継ぐルートもあります。まずタブリーズから南の町オスクー(Osku)へ移動し、そこからカンダヴァン行きのサヴァリに乗り換えます。時間はかかりますし、ペルシャ語の簡単な理解が必要ですが、料金はずっと安価で、地元の人々と交流しながら旅を楽しめます。

私の場合、行きはチャータータクシーを利用し、親切なドライバーのハッサンさんと友人になりました。彼はカンダヴァンの歴史や見どころを熱心に教えてくれ、村の理解が深まりました。帰りは彼の好意でオスクーまで送ってもらい、そこからサヴァリを使ってタブリーズへ戻るという貴重な体験もしました。満員の車内で地元の人々と肩を寄せ合って進む道中は、忘れられない思い出となりました。

岩と共に眠る夜:洞窟ホテルという非日常

カンダヴァンの魅力を存分に味わいたいなら、一泊することを強くおすすめします。日中の賑やかさが嘘のように静まり返る夜の村は、幻想的な雰囲気に包まれ、まるで時間が止まったかのような不思議な感覚が広がります。さらに、この村には世界でも稀有なユニークな宿泊施設「洞窟ホテル」があります。これは岩窟住居を改装したもので、とても珍しい体験ができます。

特に有名なのが「ラレー・カンダヴァン・インターナショナル・ロッキー・ホテル(Laleh Kandovan International Rocky Hotel)」です。伝統的なカランの建造物を活かしつつ、快適なベッドやバスルーム、床暖房まで備えた客室はまさに非日常の空間となっています。岩肌がそのまま壁になった部屋で迎える朝は、格別の思い出となるでしょう。

予約は公式サイトや各種ホテル予約サイトで受け付けています。観光シーズンは混雑が予想されるため、早めの予約がおすすめです。私が訪れた冬のオフシーズンは比較的空いていて、静かな滞在を楽しめました。

ホテル内のレストランで味わうイラン料理も絶品です。羊肉のケバブや豆とハーブを煮込んだスープ「アーシュ・レシュテ」など、体の芯から温まる料理が旅の疲れを癒してくれます。窓の外に広がる雪景色の奇岩群を眺めながらの食事は、一生の思い出になることでしょう。

もしホテルが予算的に難しい場合でも、村にはゲストハウスや地元の人が旅行者に部屋を貸す「ホームステイ」といった選択肢があります。これらは村人の生活により深く触れられる可能性がありますが、事前予約は難しく、現地で直接交渉するのが一般的です。

トラブルとどう向き合うか

旅行中のトラブルは避けられないものです。特にイランのように文化やシステムが大きく異なる国では、予想外の事態が発生することもあります。しかし、準備と心構えがあれば、それも旅のスパイスとして楽しむことができます。

  • 現金が基本の社会:

イランでは経済制裁の影響により、国際的なクレジットカード(VISA、MasterCardなど)やキャッシュカードはほとんど使えません。ATMでの現地通貨引き出しもできないため、滞在に必要な費用はすべて現金(米ドルやユーロ)で持ち込み、現地の両替所でイラン・リヤルに両替する必要があります。お金は複数箇所に分けて持ち、貴重品の管理には十分注意してください。

  • イラン独特の文化「ターロフ」:

イランには「ターロフ(Taarof)」という独特の礼儀文化があります。例えば、タクシーの運転手が「お金は要らないよ」と言ったり、店の主人が「代金は結構です」と言ったりすることがありますが、これは真意ではなく、あくまで社交辞令や謙遜の表現です。このような申し出は2、3度丁寧に辞退し、それでも受け取られなければ初めて好意として受け入れるのが一般的です。最初は戸惑うかもしれませんが、相手への敬意と感謝を示す美しい文化だと理解すると、コミュニケーションが一層楽しいものになるでしょう。

  • 緊急時の連絡先:

事故や病気、パスポートの紛失などに備えて、海外旅行保険への加入は必須です。タブリーズには設備の整った病院もあります。トラブルに遭遇した場合は、まずホテルスタッフや現地の信頼できる人に相談してください。多くの人々は困っている旅行者を見過ごすことなく親切に対応してくれます。また、事前に在イラン日本国大使館の連絡先を控えておくと安心です。

観光化の波と、旅人が守るべきもの

カンダヴァンのような個性的な村が世界中から関心を集めるのは当然のことです。近年では訪れる観光客が増加し、土産物店やレストラン、ホテルが次々と整備され、村の風景は少しずつ変化しています。観光は村に経済的な恩恵をもたらす一方で、その素朴な暮らしや美しい景観を損なうリスクもはらんでいます。

私たち旅人がこの地を訪れる際には、何を心がけるべきでしょうか。それは単なる消費者ではなく、敬意を持つ訪問者であることです。

  • 地元での消費を大切にする: 村の人々が手作りした工芸品や新鮮なハチミツを購入することは、彼らの暮らしを直接支援することにつながります。大規模なホテルだけでなく、小規模な店や食堂を利用することも地域経済への貢献となります。
  • ゴミは持ち帰ること: この美しい景色を守るためには、ごみのポイ捨てを絶対に避けましょう。自分の出したゴミは責任を持って持ち帰るか、指定された場所に捨てるようにしましょう。
  • 静かに村を歩く: ここはテーマパークではなく、地元の人々の生活の場です。大声で騒いだり、許可なく民家の敷地に入ったりすることは慎むべきです。
  • 文化を学ぶ姿勢を持つ: なぜ人々はヘジャブを身につけるのか、なぜ岩の家に暮らし続けるのか。その背景にある歴史や文化、宗教について理解しようと心がけることが、現地の人々との真の交流につながります。

ユネスコの世界遺産暫定リストに登録されているカンダヴァン。この地の普遍的な価値が認められ、未来にわたって美しい風景と文化が守られていくことを心より願っています。そのためには、私たち一人ひとり旅人の行動が大きな意味を持つのです。

旅の終わりに、リュックに残るもの

雪に覆われたカンダヴァンをあとにする朝、私は村を一望できる小さな丘の上に立っていました。夜の間に再び雪が舞い降り、村は純白のベールで包まれていました。煙突から立ちのぼる煙が静かに空へと昇っていく光景は、まるで一幅の絵画のようでした。冷たい空気を深く吸い込むと、土と焚き火の香りが、旅の記憶とともに心の奥に刻まれていくのを感じました。

私の5リットルのリュックは、来たときとほとんど変わらず軽やかです。タブリーズで購入した服は街の慈善団体に寄付しました。小さなハチミツの瓶だけが、ほんの少しの重みを加えています。しかし目に見えない「何か」は、確実に増していました。アフマドさんの家で味わったチャイの温かさ。子どもたちの純真な笑顔。タクシー運転手のハッサンさんが誇らしげに語る姿。そして、厳しい自然と折り合いをつけながら何世紀も岩と共に生きてきた人々の、静かで揺るぎない強さ。

物をあまり持たない旅は、心を軽くし、感覚を研ぎ澄ませてくれます。そして、その空っぽになった心には、訪れた土地のかけがえのない記憶が深く豊かに染み込んでいくのです。

カンダヴァンは単なる珍しい風景を楽しむ観光地ではありません。ここは人が自然とどのように共生できるかという、一つの答えを示してくれる場所であり、物質的な豊かさとは違う「生きる豊かさ」を教えてくれる場所でした。もし日常から離れ、時間の流れがゆったりと異なる世界に身を置いてみたいと願うなら、ぜひこのイランの山あいに抱かれた洞窟の村を訪れてみてください。

荷物が軽ければ軽いほど、きっと多くのものを心に抱えて帰ることができるはずです。雪と土、煙の香りに満ちたあの村の空気を、ぜひ肌で感じてみてください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いたトラベルライター

5リットルの子供用リュック1つで旅をしています。最低限の荷物、最大限の自由。旅のスタイルは“軽く生きる”。そんな哲学を共有していけたら嬉しいです。

目次