紺碧の海が鏡のように空を映し、険しい山肌がまるで巨大な屏風のように迫ってくる。その山と海の間に、ぎゅっと抱かれるようにして存在する迷宮都市、モンテネグロのコトル旧市街。オレンジ色の屋根瓦がひしめき合い、中世の物語からそのまま抜け出してきたかのような石畳の路地が、旅人を時間旅行へと誘います。
レンタカーのハンドルを握り、世界中の道を走ってきた私ですが、コトル湾の最奥へと続く道ほど、息をのむような景観と、これから始まる冒険への期待感に胸が高鳴る場所はそうありません。目の前に現れた堅牢な城壁に囲まれた街を見たとき、誰もが同じ疑問を抱くのではないでしょうか。「なぜ、この街はこれほど完璧な姿で、現代にその姿を残しているのだろう?」と。
それは単に美しいから、歴史があるから、という言葉だけでは片付けられない、幾重にも重なった理由の物語。地理的な奇跡、大国の思惑、そして人々の不屈の意志が織りなす、壮大な叙事詩なのです。この記事では、元自動車整備士としての構造物への探究心と、旅人としての好奇心を全開にして、コトルがなぜ難攻不落の要塞都市として歴史の荒波を乗り越え、現代にその姿を留めているのか、その秘密を深く、そして熱く解き明かしていきたいと思います。さあ、一緒に時を遡る旅に出かけましょう。
このような不屈の意志で歴史を紡いだ街の物語は、琥珀の輝きで知られるリトアニアの文化と歴史にも通じるものがあります。
第1章:神が創りし天然の要害 – コトルの地理的優位性

コトルが要塞として群を抜いて優れていた第一、そして最大の理由は、その卓越した地理的条件にあります。地図を広げてご覧ください。アドリア海に深く入り組んだ複雑な湾が見えます。これが「ヨーロッパ最南端のフィヨルド」と称されるコトル湾です。正確にはフィヨルドではなく、河川の浸食で形成されたリアス海岸ですが、その風景はノルウェーのフィヨルドにも引けを取らない壮麗さを誇っています。
海からの堅固な防御
コトルの旧市街は、この長く入り組んだ湾の最も奥の突き当たりに位置しています。これは何を意味するのでしょうか。敵が海路からこの街を攻める場合、まずは狭く見通しの利かない湾内を延々と進まざるを得ません。湾の両側には険しい山々がそびえ立つため、敵の艦隊は防御側からすればまさに格好の標的となり、細く曲がりくねった水路を慎重に進むことになるのです。まるで射撃場のレーンの中を進むかのように。
湾の入り口からコトルまで約28キロの距離があります。この長さは防御側に十分過ぎるほどの時間を与え、狼煙や見張りの伝令で敵の接近が分かれば街はすぐに戦闘態勢に入ることが可能です。加えて、湾内は風向きが変わりやすく、大型の帆船にとっては航行が難しい場所も多かったと推測されます。現代のクルーズ船でさえ、その巨大な船体を慎重に操りながら湾を進むのですから、当時の船乗りにとってはまさに自然の要塞と呼ぶにふさわしかったに違いありません。
レンタカーでこの湾岸線を走ると、防御上の優位性が肌で感じられます。カーブを曲がるたびに異なる景色が現れ、次の岬の先が見通せない。もし自分が攻める側なら、潜む伏兵の場所が分からず、常に不安と緊張に苛まれるだろうと実感します。この地形こそ、まさにコトルが最初に授かった「城壁」そのものでした。
陸路からの侵攻を阻む険しい山々
海路の防御が完璧なら、陸路からはどうだったのでしょうか。コトル旧市街の背後には、まるで天を突くかのように聖イヴァン(サン・ジョヴァンニ)の丘がそびえています。そのさらに背後には、モンテネグロの国名の由来ともなった「黒い山」ロヴチェン山をはじめ、ディナル・アルプス山脈の険峻な山々が連なっています。
旧市街から見上げる城壁は、この聖イヴァンの丘の急斜面にへびのように絡みついています。標高差は約260メートルに及び、もはや「壁」と呼ぶより「崖」と言った方が相応しいほどです。元自動車整備士として申し上げれば、この斜度は現代の四輪駆動車ですら躊躇するレベルであり、重い甲冑を身にまとった兵士たちがここを攻め上る無謀さは想像に難くありません。
さらに大軍を展開できる広い平地は皆無で、狭く急な山道を一列となって進むしかありません。そうなると、防御側は少数の人員で岩や矢を上から落とすだけで、効率的に敵軍を撃退できるのです。まさに「一夫当関(いっぷとうかん)にして万夫莫開(ばんぷばくかい)」という言葉がふさわしい地形と言えます。コトルは海と山の両側から、自然そのものの力で守られた奇跡的な地勢を誇っていました。この土地柄があったからこそ、後の時代に築かれた人工の城壁は、その防御効果を何倍にも引き上げることができたのです。
第2章:ヴェネツィア共和国の野望 – アドリア海の女王が築いた石の城壁
コトルが持つ天然の要害としての潜在力に、いち早く注目した大国がありました。それが、当時アドリア海の支配権を握っていた海洋国家、ヴェネツィア共和国です。「アドリア海の女王」と称されたヴェネツィアにとって、コトルは絶対に手放せない戦略的要衝でした。
なぜヴェネツィアはコトルを重要視したのか
15世紀初頭から18世紀末までの約400年間、コトルはヴェネツィア共和国の支配下にありました。この期間に、現在私たちが目にする壮大な城壁の多くが築かれ、修繕されています。ヴェネツィアがこれほど徹底的にコトルの防備を固めたのには、明確な背景がありました。
交易の拠点として: コトルはバルカン半島の内陸部とアドリア海を結ぶ重要な交易ルート上に位置していました。内陸からは鉱物資源や木材、革製品などが運ばれ、ヴェネツィアからは塩や織物、贅沢品が供給される。この交易路を確保し、関税を徴収することはヴェネツィアに多大な利益をもたらしました。
海軍基地として: 天然の良港であるコトル湾は、ヴェネツィア艦隊にとって理想的な停泊地かつ補給地でした。船舶の修理や食料・水の補給、さらには兵士の休息の場として、その役割は非常に重要でした。
オスマン帝国に対する最前線として: そして最も重要なのは、当時東から勢力を拡大していたオスマン帝国への防波堤としての役割です。バルカン半島を席巻し、ヨーロッパへ進出を狙うオスマン帝国にとって、アドリア海の制海権獲得は悲願でした。その野望を阻止するための最前線の砦こそ、コトルでした。
ユネスコ世界遺産登録のページによれば、「ヴェネツィア共和国は15世紀から17世紀にかけてアドリア海沿岸に広大な防衛網を築き、その中でもコトルは特に重要な拠点であった」と記されています。これにより、ヴェネツィアがいかにコトルを重視していたかが理解できます。
4.5キロに及ぶ石造の防壁
ヴェネツィアは惜しみなく資金と技術を投入し、コトルの城壁を強化していきました。旧市街をぐるりと包み込み、背後の聖イヴァンの丘の頂上にある聖イヴァン要塞に至るまで続く城壁の総延長は、実に4.5キロメートルに達します。厚みは場所によって2メートルから16メートル、高さは最大で20メートルにも及びます。
この城壁は単なる壁ではありません。複数の塔や堡塁(ほうるい)、そして3つの主要な門(海の門、川の門、グルディッチ門)が組み合わさった、高度に設計された防衛システムでした。とりわけヴェネツィアの象徴である「有翼の獅子」のレリーフが飾られた「海の門」は、街の正面玄関として、その権威と堅牢さを内外に示していました。
城壁の石組みを見ると、元整備士としての血が騒ぎます。一つひとつの石が、まるで精密な機械部品のように正確に切り出され、寸分の狂いもなく組み合わされています。これは当時最高峰の石工技術の結晶です。雨水を効率よく流すための排水口や、大砲を設置するための砲眼など、細部に至るまで綿密に計算された設計。ヴェネツィアはコトルを単に防衛するだけでなく、決して陥落しない「不沈空母」のような要塞へと築き上げようとしたのです。その執念とも言える強い意志が、この石の壁に刻まれています。
第3章:歴史の証人 – 幾多の攻撃を退けた不屈の魂

完璧な地形と、ヴェネツィアが築いた頑強な城壁。しかし、これらは単なる「器」に過ぎません。コトルが真に難攻不落の要塞となり得たのは、その器の中で街を守り抜こうとする人々の不屈の精神が息づいていたからです。この歴史は、オスマン帝国との激しい攻防の歴史でもありました。
オスマン帝国による度重なる包囲
16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国は幾度もコトルに襲いかかりました。特に有名なのが、1539年に提督バルバロス・ハイレッディンが指揮した包囲戦です。彼は強大な艦隊を率いてコトル湾に進入し、街を包囲しました。しかし、コトルの市民とヴェネツィアの守備隊は団結して抵抗。激しい砲撃戦と攻城戦を経て、バルバロスは最終的に攻略をあきらめ、撤退を余儀なくされました。
さらに1657年には、7000人ものオスマン軍が陸路からコトルを包囲しました。このとき守備兵はわずか1000人ほどであったと伝えられています。絶望的な兵力差にもかかわらず、彼らは地形や城壁を巧みに活用し、2か月にわたる包囲に耐え抜きました。疫病や飢えに苦しみながらも、彼らは決して降伏しなかったのです。
これらの戦いは、コトルの城壁がいかに防御効果に優れていたかを示しています。海からの攻撃は湾の形状により勢いを削がれ、陸からの攻撃は険しい山岳や城壁によって阻まれる。まさに自然と人工の防御が完璧に融合した結果でした。しかしそれ以上に、故郷を守ろうとする市民たちの強い意志が、石の壁に生命を吹き込んでいたのです。城壁に残る弾痕は、当時の激しい戦闘の記憶を静かに物語っています。
要塞都市の内部構造
コトルの強さは外郭の城壁だけにとどまりません。街の内部構造自体が防衛を念頭に置いて設計されていました。
迷路のような路地: 旧市街に足を踏み入れると、その複雑に入り組んだ路地のために誰もが方向感覚を失いそうになります。これは敵が城内に侵入してもすぐには中心部にたどり着けないよう、意図的に設計されたものです。曲がりくねった狭い通りは大軍の進軍を阻み、一人ずつ撃破するのに効果的でした。
井戸と貯水槽: 長期にわたる包囲戦で最も重要となるのが水の確保です。コトル旧市街には、多数の井戸や雨水を溜めるための貯水槽が設置されていました。これにより外部からの補給が断たれても、街は籠城して戦い続けることができました。
武器庫と食料庫: 街の各所には、武器や弾薬、食料を保管する倉庫が戦略的に配置されていました。これらは有事の際に迅速に防衛拠点へ物資を供給するための重要な施設でした。
こうしてコトルは、街全体が一つの巨大な防衛装置として機能するよう設計されていたのです。それは常に戦いと隣り合わせで生きてきた人々の英知と経験の結晶と言えるでしょう。
第4章:時代の変化と奇跡的な保存 – なぜ破壊されなかったのか
ヴェネツィア共和国がナポレオンにより滅ぼされると、コトルはオーストリア、フランス、そして再びオーストリア(後のオーストリア=ハンガリー帝国)と、支配者が頻繁に入れ替わる激動の時代を迎えました。近代兵器の登場によって、中世以来の城壁の軍事的価値は次第に薄れていきました。ヨーロッパ各地の多くの都市では、近代化の波に伴い旧来の城壁が交通の妨げとみなされ、取り壊されていきました。それでは、なぜコトルの城壁は破壊を免れ、現在に至るまでその姿を留めているのでしょうか。
役割の変化と価値の再評価
その一因として、コトルが軍事拠点としての重要性を失った後も、アドリア海における重要な港町としての地位を保ち続けたことが挙げられます。城壁はもはや敵の侵入を防ぐためではなく、市街の区画を示し、税関として機能するようになりました。さらに、周囲を険しい山々に囲まれ拡張の余地が限られていたため、城壁を取り壊して街を外へ広げる必要性もあまりなかったのです。
そして20世紀に入ると、世界的に歴史的建造物や景観の保存を促進する機運が高まりました。人々は、コトルの城壁や旧市街が単なる古い建築物ではなく、極めて希少な文化遺産であることを認識し始めました。特に第一次世界大戦後、この地域がユーゴスラビア王国の一部となると、その歴史的価値はいっそう重視されるようになりました。
モンテネグロの公式観光情報サイトでも、コトルは国の最重要な観光資源として紹介され、国家的な保護政策が推進されてきました。軍事要塞としての役割を終えた城壁は、歴史を物語り人々を魅了する文化遺産として、新たな価値を見出したのです。
1979年の大地震という最大の試練
しかし、近代に入ってコトルは最大の危機を迎えました。1979年4月15日、モンテネグロ沿岸地域をマグニチュード7.0の大地震が襲い、旧市街は壊滅的な被害を受け、多くの歴史的建造物が倒壊・損傷しました。城壁も例外ではなく、至る所で崩落が発生しました。何世紀にもわたりどんな軍隊の襲撃にも耐えてきた要塞都市が、自然の猛威の前にはあまりにも脆弱だったのです。
誰もが、このままコトルの歴史は終焉を迎えると感じました。しかし、ここから奇跡が始まります。当時のユーゴスラビア政府は即座に国際社会に支援を求めました。その呼びかけに応じたのがユネスコでした。ユネスコは「コトルの自然と文化・歴史地域」を世界遺産に登録するとともに、危機遺産リストにも名を連ねました。世界各地から専門家や資金が集まり、大規模な修復プロジェクトが展開されたのです。
この修復は極めて困難を極めました。崩れ落ちた石材を一つひとつ拾い上げ、元の位置を特定し、伝統的な工法で組み直す作業は、巨大なジグソーパズルを解くかのように根気と時間を要しました。ユネスコ公式サイトには、この修復活動の詳細な報告書が保管されており、その苦難と国際協力の重要性を今に伝えています。
世界的な支援と地元住民の街への深い愛情があってこそ、コトルは奇跡的な復興を遂げました。地震は悲劇でしたが、結果的にコトルの価値を世界に再認識させ、その保存に向けた国際的な枠組みを築く契機となったのです。つまり、コトルは単に人間の手で守られただけでなく、一度は破壊されながらも再び人の手により蘇った要塞都市でもあるのです。
第5章:実践ガイド – あなたがコトルの歴史を体感するために

これまでの物語を読んで、コトルの城壁や旧市街を自分の足で歩いてみたくなった方は多いのではないでしょうか。ここからは、実際にコトルを訪れて、その歴史を存分に感じられる具体的な情報をお届けします。元整備士の視点から、事前準備とトラブル対策には少々こだわりがありますよ!
コトル城壁ハイキング完全マニュアル
コトル訪問の一番の見どころは、旧市街の背後にそびえる城壁(聖イヴァン要塞への道)を登ることです。頂上から眺めるコトル湾とオレンジ色の屋根の景観は、きっと心に深く刻まれる思い出になるでしょう。
出発前の準備 – 快適な登山体験のために
このハイキングは決して甘く見てはいけません。石畳の階段は約1350段あります。準備不足だと、せっかくの体験が苦痛に変わってしまうことも。
- 持ち物チェック:
- 水分: 最重要です。最低でも1リットル、特に夏は1.5リットル以上の水を持参しましょう。途中で水を買える場所はありません。
- 歩きやすい靴: サンダルやヒールは厳禁。スニーカー、理想はグリップ力のあるトレッキングシューズがおすすめです。石段はすり減って滑りやすい箇所もあるため、溝がしっかりしている靴を選んでください。
- 帽子と日焼け止め: コースの多くは日陰がないため、特に夏は熱中症対策として帽子は必須です。
- 現金(小銭): 入場料は現金のみ受付のケースが多いです。2023年の情報では一人8ユーロですが、料金は季節や年によって変わることがあります。カードは使えないと考えたほうが良いでしょう。
- カメラ: 絶景が続くため、スマートフォンの充電も忘れずに。
- 汗拭きタオル: 思った以上に汗をかきます。
- (オプション)軽食: ナッツやチョコレートなどのエネルギー補給に役立つものがあると安心です。
チケットの購入と登り口の案内
城壁へ登る公式な入り口は旧市街内に2ヶ所あり、それぞれ小さなブースで入場券を購入します。
- メインの登り口: 旧市街北側の聖マリア教会周辺に位置し、もっとも分かりやすく利用者が多い場所です。
- もうひとつの登り口: 南側のグルディッチ門近くにあり、やや見つけにくい場所です。
入場料は日中(おおむね午前8時から午後8時ごろまで)に徴収されます。早朝や夜間は係員がいないため無料で登れる場合もありますが、暗い時間は転倒などのリスクが高いため、初めての方は必ず明るい時間帯に登ることをおすすめします。
城壁ハイキングのルートと見どころ
登り始めから頂上の聖イヴァン要塞までは、休憩をはさみながら片道45分から1時間半ほどを見込んでおくとよいでしょう。
- 序盤: 最初から急な階段が続きます。無理せず自分のペースを守りましょう。振り返るたびに眼下の旧市街がどんどん小さくなります。
- 中腹: コースの中間あたりに「癒しの聖母教会」が見えてきます。多くのハイカーがここで休息し、最初の絶景を堪能します。鐘楼が絵になる、人気の写真スポットです。
- 終盤: 教会を過ぎると道はさらに険しくなりますが、ゴールはもう間近。最後の力を振り絞って登り切りましょう。
- 頂上: 聖イヴァン要塞の遺跡に到着です!ここから眺めるコトル湾のパノラマは、疲れを忘れさせるほどの絶景です。フィヨルドのように続く湾と、ミニチュアのような旧市街。まさに天空から見下ろす感覚が味わえます。
- 注意事項とマナー:
- 城壁から身を乗り出したり、壁に登ったりする危険な行為は厳禁です。
- ゴミは必ず持ち帰りましょう。この美しい景観を後世に残すための基本的なマナーです。
- 他のハイカーとの譲り合いを心がけてください。特に狭い場所では、下りてくる人を優先するのがマナーです。
トラブルへの対応
- 体調に異変を感じたら: めまいや吐き気など熱中症や脱水症状の兆候は見逃さないでください。無理をせず日陰で休み、水分補給を。つらいと感じたら無理せず勇気をもって引き返しましょう。
- 天候の急変時: 山の天気は不安定です。雨が降ると石段は非常に滑りやすくなります。雨が降り出したら無理せず下山を検討してください。雷が聞こえたら、安全な低地へ速やかに避難しましょう。
- チケット紛失時: 途中で入場券の確認があることもあります。紛失していると再度料金を請求される可能性があるため、チケットは大切に保管しましょう。
旧市街散策のポイントと心がけ
城壁ハイキングのあとは、迷路のような旧市街をじっくり楽しみましょう。
- 猫との交流: コトルは「猫の街」として知られています。街のあちこちで寛ぐ猫たちを見かけるでしょう。彼らは街の象徴で、地元の人々にも大切にされています。優しく見守ってあげてください。(猫博物館もあります!)
- 迷子を楽しむ: 地図を見ずに気の赴くまま路地を歩いてみてください。思わぬ美しい広場や素敵なカフェ、かわいいお土産屋さんとの出会いが待っています。迷子になること自体がコトル観光の醍醐味とも言えます。
- ドローン飛行について: 旧市街や城壁でのドローン使用は、基本的に許可が必要です。無断で飛ばすと罰金の対象になることがあるため、現地の観光案内所などで最新情報を確認してからの利用を推奨します。
- 公式情報の活用: より詳しい情報やイベントの案内は、コトル観光局(Tourist Organization of Kotor)の公式ウェブサイトが最も信頼できます。旅の計画を立てる際には一度目を通しておくと安心です。
時を超えて語りかける石の声
コトル旧市街がなぜ要塞都市としてその姿を今に留めているのか。その答えは単純な一因に集約されるものではありません。それはまるで神の手が創り出したかのような完璧な地形、アドリア海の覇権を目指すヴェネツィア共和国の強大な意志と卓越した技術、そして異民族の侵攻から故郷を必死に守り抜いた市民たちの不屈の精神によるものでした。さらに、近代における大地震という試練を乗り越えさせた、世界中の人々による温かな善意も大きな要素となっています。
こうしたすべての要素が奇跡的なバランスで絡み合い、重なり合うことで、このアドリア海の宝を現代に伝えてくれているのです。
レンタカーで大陸各地を巡る旅の途中、私は数多くの城壁都市を目にしてきました。しかし、コトルのようにその存在意義と歴史の重み、さらには圧倒的な美しさがこれほどまでに見事に融合し、迫ってくる場所は他にはありません。城壁の一歩一歩、石畳の一枚一枚に染み込んだ数々の物語がある。ただの観光地ではなく、生きた歴史の証人と言えるのです。
この記事を読んでいるあなたも、ぜひ一度この地を訪れてみてください。自らの足で城壁を登り、紺碧の湾を目の当たりにし、石畳の冷たさを肌で感じてほしいと思います。そうすれば、時を越えて語りかけてくる石たちの声が、きっと聞こえてくることでしょう。

