国際民間航空機関(ICAO)は、より安全で、便利で、そして誰もが利用しやすい国際旅行を実現するための新たな世界基準の策定に向けて大きく舵を切りました。その核心となるのが「デジタルID技術」の導入です。ICAOは各国政府に対し、この技術の導入を加速するよう強く要請しており、私たちの旅の形が根本から変わる未来がすぐそこまで来ています。
なぜ今、新しい旅行基準が必要なのか?
パンデミックを経て、世界の旅行需要は爆発的に回復しています。IATA(国際航空運送協会)によると、2024年の世界の航空旅客数はパンデミック前の2019年レベルを超える約47億人に達すると予測されており、空港の混雑は深刻な課題となっています。
一方で、偽造パスポートや国際的な脅威に対抗するため、国境でのセキュリティ要件は年々厳格化しています。現在の紙のパスポートを中心とした出入国管理システムは、増え続ける旅客と高度なセキュリティ要求の両方に対応するのに限界を迎えつつあるのです。
このような背景から、ICAOはテクノロジーを活用して「セキュリティ強化」と「旅行者の利便性向上」を両立させる新たな仕組み作りを急いでいます。それが、デジタルIDを基盤とした新しい旅行基準なのです。
新基準の核心:デジタル・トラベル・クレデンシャル(DTC)とは
ICAOが推進するデジタルIDは、「デジタル・トラベル・クレデンシャル(DTC: Digital Travel Credential)」と呼ばれています。これは、簡単に言えば「スマートフォンのアプリに入るデジタル版パスポート」です。
DTCが変える旅の体験
旅行者は、政府が発行する公式アプリなどを通じて、自身のICチップ付きパスポート情報をスマートフォンに読み込ませ、顔写真などの生体情報を登録します。これにより、高度に暗号化された安全なDTCが生成されます。
一度DTCを登録すれば、旅行者は空港の様々な場面でその恩恵を受けることができます。
- シームレスな空港体験: 航空会社のチェックイン、手荷物預け、保安検査場、搭乗ゲート、そして目的地の入国審査まで、あらゆる手続きがスマートフォンや顔認証で完結します。物理的なパスポートや搭乗券を何度も取り出す必要がなくなるのです。
- 時間の大幅な短縮: 各手続きが自動化・迅速化されることで、長蛇の列に並ぶ時間が劇的に減少します。空港での滞在がより快適でストレスフリーなものに変わるでしょう。
- セキュリティの向上: 生体情報(バイオメトリクス)とデジタル認証を組み合わせることで、本人確認の精度が飛躍的に向上します。これにより、偽造パスポートによる不正入国などのリスクを大幅に低減できます。
予測される未来と私たちの旅への影響
この新しい基準が世界的に普及すれば、私たちの旅はどのように変わるのでしょうか。
「ウォークスルー空港」の実現
将来的には、空港に到着してから飛行機に乗るまで、一度も立ち止まることなく、歩きながら顔認証だけで全ての手続きが完了する「ウォークスルー体験」が現実のものとなるかもしれません。これは、旅行の概念を根底から覆す可能性を秘めています。
プライバシーと包摂性という課題
一方で、デジタルIDの導入には課題も伴います。個人の生体情報や渡航履歴といった機密性の高いデータをどのように保護するのか、サイバー攻撃に対する万全の対策は不可欠です。ICAOと各国政府は、厳格な国際基準のもとでプライバシー保護を徹底する必要があります。
また、スマートフォンを持たない人々やデジタル技術に不慣れな人々が取り残されないようにする「包摂性(インクルーシビティ)」の確保も重要なテーマです。当面は従来のパスポートも併用される見込みですが、誰もが新しいシステムの恩恵を受けられるような代替手段の提供が求められます。
日本の動向
日本でも、主要国際空港で顔認証ゲートの導入が進んでいますが、その利用はまだ限定的です。今回のICAOの要請は、デジタル庁が推進する社会のデジタル化の流れと相まって、日本におけるDTC導入の議論を加速させるきっかけとなるでしょう。
ICAOが示す新たなビジョンは、単なる技術革新に留まりません。それは、国境を越える移動をより自由で、安全で、快適なものにするための、国際社会全体の挑戦です。パスポートをカバンから探す手間が過去のものとなる、新しい旅の時代が始まろうとしています。

