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砂漠に咲いた奇跡の都市。なぜペトラ遺跡は不毛の地に築かれたのか?地理と交易の謎を解き明かす旅へ

目の前に広がるのは、赤茶けた乾いた大地。灼熱の太陽が照りつけ、風が砂を巻き上げる…そんな過酷な砂漠のまっただ中に、突如として現れる壮麗な都市。それが、ヨルダンが世界に誇る至宝、ペトラ遺跡です。映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のクライマックスシーンで、聖杯が眠る神殿として登場したことで一躍有名になりましたが、その魅力は映像をはるかに超える感動を与えてくれます。細く切り立った岩の裂け目「シーク」を抜けた先に、バラ色の岩肌から彫り出された巨大な神殿「エル・ハズネ」が姿を現す瞬間は、まさに鳥肌もの。誰もが息をのむ、旅のハイライトと言えるでしょう。

しかし、ふと冷静に考えてみると、一つの大きな疑問が浮かび上がります。なぜ、これほどまでに壮大で、高度な文明を誇った都市が、水も乏しく、農耕にも適さない、このような不毛の砂漠地帯に築かれたのでしょうか。そこには、古代の人々の驚くべき知恵と、時代の流れを巧みに利用したしたたかな戦略が隠されていました。今回は、ペトラ遺跡がなぜ砂漠の真ん中に築かれたのか、その秘密を「地理」と「交易」という二つの鍵で解き明かしていく、時空を超えた謎解きの旅にご案内します。この記事を読み終える頃には、あなたもきっとペトラの真の姿に魅了され、この奇跡の都市を訪れたくなるはずです。

中東の砂漠地帯には、湾岸戦争の記憶を巡るクウェートへの旅路など、他にも歴史が刻まれた場所が数多く存在します。

目次

ペトラ遺跡とは?時を超えたバラ色の都の概要

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まずは、この壮大な遺跡の基本情報から見ていきましょう。ペトラがどのような場所であり、誰がどのようにして栄えたのかを理解することは、本題であるその立地の謎を解明するための重要な第一歩となります。

古代ナバテア人が築いた神秘の文明

ペトラ遺跡を築いたのは、ナバテア人と呼ばれる民族でした。彼らはもともとアラビア半島を起源とする遊牧民と考えられており、紀元前6世紀頃からこの地に姿を現し、徐々に定住生活を始めました。ナバテア人は文字による記録をほとんど残していないため、その文化や生活様式には依然として多くの謎が秘められています。しかし、彼らが築いたペトラ遺跡自体が、その卓越した技術力と繁栄ぶりを雄弁に語っています。

ナバテア人は単に岩を掘って住居や墓を造っただけでなく、後に詳述する交易路を掌握することで巨万の富を得ました。そして、その財力をもとに、ギリシャ、ローマ、エジプトといった先進文明の建築様式や文化を積極的に取り入れました。ペトラの建築群に見られるヘレニズム様式の影響がその代表例です。遊牧民としての土地感覚と商人としての国際的視野を兼ね備えたナバテア人は、紀元前1世紀頃にはペトラを首都とするナバテア王国の最盛期を迎えました。

この都市が「バラ色の都市(Rose-Red City)」と詩的に称されるのは、建造物が彫られた砂岩の色彩に由来します。太陽の光の当たる角度によって、岩肌は淡いピンク、燃えるような赤、さらには深い紫に刻々と色合いを変え、訪れる人々を幻想的な世界へと誘います。しかし、その輝かしい栄華は永遠には続きませんでした。西暦106年にナバテア王国はローマ帝国に併合され、ペトラはローマ帝国アラビア属州の一都市となりました。その後、交易路の変動や大地震などの影響を受けて次第に衰退し、7世紀頃には歴史の表舞台から姿を消し、西洋世界からも記憶されなくなってしまったのです。

世界遺産としての価値と映画による知名度

何世紀にもわたり砂漠の奥深くに眠り続けていたペトラが、再び世界の関心を集めるきっかけとなったのは1812年のことです。スイス人探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが地元ベドウィンの案内を受けてこの地を「再発見」しました。この発見以来、多くの考古学者や探検家がペトラを訪れ、その壮麗な遺跡群が次第に解明されていきました。

ペトラの歴史的・文化的価値が高く評価され、1985年にはユネスコの世界遺産に登録されました。登録の理由として、岩を彫り抜いて造られた他に類を見ない都市であること、古代ナバテア人の優れた水利技術、そして東西文明が交錯した要衝であったことなどが挙げられています。まさに人類の創造力を示す傑作と呼ぶにふさわしい場所です。

さらにペトラの名を世界的に知らしめたのが、1989年に公開された映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でした。劇中でハリソン・フォード演じるインディ・ジョーンズが、聖杯を求めてシークを馬で駆け抜け、エル・ハズネに辿り着くシーンは映画史に残る名場面となっています。この映画を見てペトラに憧れを抱いた人も多いでしょう。現在、ペトラはヨルダンで最も人気のある観光地の一つとなり、年間100万人以上の観光客が訪れる、国を象徴する存在となっています。

なぜ「砂漠の真ん中」だったのか?地理的要因の探求

さて、ここからがいよいよ本題に入ります。ナバテア人は、なぜ一見して生存に適さないと思われるこの砂漠の谷に、これほど壮大な都市を築き上げたのでしょうか。その答えは、ペトラが持つ独特の地形と、それを最大限に活かしたナバテア人の類いまれな知恵にあります。

天然の要塞としての地形的優位性

ペトラ遺跡を訪れると、誰もがまず驚かされるのが、そのアクセスの特異性です。遺跡の中心部にたどり着くには、「シーク」と呼ばれる、高さ約100メートルを誇る岩壁に挟まれた、幅がわずか数メートルの細長い峡谷を約1.2キロメートルにわたって進まなければなりません。このシークこそが、ペトラがこの地に築かれた大きな地理的理由のひとつだったのです。

想像してみてください。もし敵が攻めてきたとしても、この狭い通路では大軍を展開できません。少人数の兵士で入り口を固めれば、容易に敵の侵入を阻むことができるのです。シークはまさに、自然が作り出した完璧な城壁であり、防御施設そのものでした。敵にとっては悪夢ともいえる地形ですが、住民にとっては最高の安心感をもたらす天然の要塞だったのです。ペトラは、外界から隔絶されたまさに「隠れ里」だったのです。

さらに、シークを抜けた先も険しい岩山に完全に囲まれており、外部から都市内部の様子をうかがい知ることは非常に困難で、どこから攻め込めばよいのかも判断しづらい状況でした。このような地形は、敵の奇襲を防ぎ都市の安全を維持するうえで絶大な効果を発揮しました。ナバテア人は、遊牧民として鍛えた土地を読む鋭い感性によって、この場所が持つ軍事的価値を見抜いていたに違いありません。彼らは都市建設に際し、何よりもまず「安全性」を最優先したのです。この隔絶された地形こそが、ナバテア人が独自の文化を育み、富を蓄積するための安定した環境を提供したと言えるでしょう。

生命線「水」を制した驚異の水利技術

しかし、いくら防御に優れていても、生きていくうえで欠かせない「水」がなければ都市は成り立ちません。ペトラ周辺は年間降水量が非常に少なく、常に水不足の危険にさらされる乾燥地帯です。では、ナバテア人は数万人が暮らす都市の水をどのように確保していたのでしょうか。その答えは、岩山に巡らせた驚異的な水利システムにありました。

ナバテア人は天才的な土木技術者でもありました。彼らは、まれに降る豪雨(鉄砲水)を一滴も無駄にしないために、岩山に複雑な水路網を掘り込んだのです。シークの壁面を注意深く見ると、今もその名残である水路の跡が確認できます。この水路は岩山に降った雨水を集め、都市各所の巨大な貯水槽へと運ぶためのもので、総延長は数十キロにも及ぶと言われています。さらに、土砂を取り除く沈殿槽や、水を清潔に保つための濾過システムまで備わっていたことには驚きを禁じ得ません。彼らは「集める」「運ぶ」「貯める」「使う」という一連の水の管理プロセスを、砂漠という過酷な環境下で完璧に制御していたのです。

この高度な水利技術があったからこそ、ナバテア人はペトラに定住し、農業や家畜の飼育を行い、多くの人々が暮らす大都市を維持することが可能となりました。それだけでなく、砂漠の中の貴重なオアシスとして、水を求めて訪れる人々をも迎え入れることができたのです。ペトラの繁栄は、水を支配したことによってこそ成し遂げられたと言っても過言ではありません。この驚異的な技術は、ナバテア人が単なる交易民にとどまらず、自然の過酷さを知恵と工夫で乗り越えた高度文明を誇っていたことの証明でもあります。ペトラ遺跡の壮麗な建築物だけでなく、この目立たない水路の跡にこそ、彼らの真の偉大さが秘められているのです。

砂漠の交差点。交易が生んだ富と繁栄

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強固な防衛体制と安定的な水資源の確保は、都市の存続に不可欠な条件ですが、ペトラが卓越した繁栄を遂げた理由としては、それだけでは足りません。ペトラを砂漠の辺境から古代世界の重要拠点に押し上げた最大の原動力は、「交易」でした。ナバテア人は、その地理的利点を最大限に活用し、砂漠の中央を「富の交差点」へと変容させたのです。

乳香と没薬の道「香料の道」の戦略的拠点

古代において、金銀に劣らぬ価値を持った商品が存在しました。それが「乳香」と「没薬」です。これらは主にアラビア半島南部(現代のイエメンやオマーン)で採取される樹脂で、神殿の宗教儀式での焚香や香水・医薬品の原料として、エジプト、ギリシャ、ローマなど地中海世界で極めて高い需要を誇っていました。乳香や没薬をアラビア半島から地中海沿岸の港へとラクダの隊商(キャラバン)が運ぶ交易路は「香料の道」と称され、古代のシルクロードに匹敵する重要な経済ルートでした。

この「香料の道」のほぼ中間地点に位置し、戦略的に極めて重要だったのがペトラです。南方から訪れるキャラバンは、過酷な砂漠の旅で疲れ果てています。ペトラは彼らにとって、安全に休息できる場であり、新鮮な水や食料を補給できる砂漠のオアシスでした。ナバテア人はこうした地理的優位性に着目し、ペトラをキャラバン交易の中継都市として発展させました。

通行税と安全保障で築かれた巨額の富

ナバテア人は単に場所を提供するにとどまりませんでした。彼らは非常に巧妙な商人でもありました。ペトラを通るすべてのキャラバンに対して通行税や関税を課す一方で、それは搾取的なものではありませんでした。ナバテア人は見返りとして、多彩な「サービス」を提供していたのです。

最も重要なサービスは「安全の保障」でした。砂漠の道中は盗賊による襲撃の危険が常につきまといます。ナバテア人は遊牧民の経験に基づき、周辺地理を熟知していました。彼らは自らの軍事力で交易路の治安を守り、キャラバンが無事に旅を続けられるよう保護したのです。さらに、前述した高度な水利技術で確保した豊富な水資源や食料、家畜の飼料を提供し、疲れた旅人やラクダが安らげる快適な宿も整備しました。言い換えれば、ナバテア人は通行税という形で、現代でいうところのインフラ利用料、安全保障料、そしてサービス料を徴収していたのです。

このビジネスモデルは大成功を収め、ペトラには膨大な富が集まりました。エル・ハズネや王家の墓など、切り立った岩壁から彫り出された壮麗な建築群は、この交易で得た財力があってこそ実現できたのです。ペトラの繁栄は、軍事力や生産力に拠るものではなく、地理的優位を活かした「商業」と「サービス業」によって築かれた、極めて独自性の高いものでした。

東西文明の交差点としての文化交流

交易は富のみならず、多彩な文化もペトラにもたらしました。ペトラはアラビア、エジプト、シリア、ギリシャ、ローマなど、さまざまな地域の文化が交錯する国際都市でした。キャラバンとともに商人や職人、兵士など多様な人々が集い、情報や技術、芸術様式の交流が活発に行われました。

その影響はペトラの建築に色濃く反映されています。たとえば、ペトラの象徴的建造物であるエル・ハズネの正面部分は、ギリシャ建築のコリント式柱やエジプトの女神イシスを想起させる彫刻など、多様な文化要素が結びついたデザインです。これはナバテア人が外来文化を単に模倣したのではなく、自らの美意識で取捨選択し、独自の様式を創り上げたことを示しています。彼らは文化の交差点という地の利を活かし、多文化共生の国際都市文化を花開かせたのです。ペトラは経済の中心地であると同時に、多文化が融合する文化のるつぼでもありました。

ペトラ遺跡を歩く。実践的トラベルガイド

ペトラの歴史や地理的な背景を知ると、実際に訪れてみたくなる気持ちがいっそう強まりますよね。ここからは、ペトラへの旅を計画し、現地でその魅力を存分に楽しむための具体的な情報をお伝えします。この記事を参考にすれば、あなたのペトラ旅行はよりスムーズで、思い出深いものになること間違いありません。

旅の計画:最適な時期とアクセス手段

ペトラ観光の成功は、訪れる時期によって大きく左右されます。おすすめのシーズンは、気候が快適な春(3月~5月)と秋(9月~11月)です。日中の気温も過ごしやすく、遺跡の散策が快適に楽しめます。一方、夏(6月~8月)は強烈な日差しで気温が40度を超えることもあり、熱中症の危険が高まります。冬(12月~2月)は寒さが厳しく、雨や雪も降るため、鉄砲水のリスクにも注意が必要です。夏や冬に訪れる場合は、十分な対策を講じましょう。

ヨルダンの玄関口である首都アンマンのクイーン・アリア国際空港からペトラ遺跡の拠点となるワディ・ムーサの町までは、車で約3時間の距離です。一般的なアクセス方法は以下の通りです。

  • JETTバス: アンマンとペトラを結ぶ観光客向けの快適なバスで、毎日運行中。オンライン予約が可能で、手軽かつ経済的な移動手段の一つです。
  • タクシーまたはプライベートカー: コストは高めですが、自分のスケジュールに合わせて自由に行動できるのが魅力です。複数人で利用すれば割安になり、ホテルでの手配も可能です。
  • レンタカー: 国際免許証を持っていれば自分で運転することもできます。ヨルダン国内の他の観光地(死海、ワディ・ラムなど)も回りたい方には特におすすめです。ただし、交通ルールやマナーは日本とは異なる点が多いため、十分注意しましょう。

多くの旅行者はペトラ遺跡の隣接するワディ・ムーサの町に宿泊します。ビジターセンターに隣接する高級ホテルから、少し離れたリーズナブルなゲストハウスまで、多彩な宿泊施設が揃っています。

チケット購入と入場:スムーズな手続きを目指して

ペトラ遺跡への入場にはチケットが必須ですが、特におすすめしたいのが「Jordan Pass(ジョーダン・パス)」の事前購入です。このパスはヨルダン国内の40以上の観光施設の入場料と、ヨルダン入国時の観光ビザ代(40JD)がセットになっており、とてもお得に利用できます。

  • ジョーダン・パスの特長:
  • ビザ費用が実質無料に: 3泊以上の滞在であれば、パス料金のみでビザ代が免除に。これだけで元が取れることが多いです。
  • ペトラの入場料が含まれる: パスの種類(Wanderer、Explorer、Expert)により、ペトラへの入場可能日数が1日、2日、3日間と異なります。広大な遺跡をじっくり楽しみたい方は2日間有効なExplorerがおすすめです。
  • その他観光地もカバー: ジェラシュ遺跡やワディ・ラム、アンマン城など主要観光地の入場料も含まれています。
  • 時間の節約: 現地でチケットを購入する手間が省けます。

ジョーダン・パスは公式サイトからオンラインで購入可能。購入後、QRコード付きのPDFがメールで届くため、スマートフォンに保存するか、印刷して持参しましょう。ヨルダン入国時にはこのQRコードを提示すればビザが発給され、ペトラのビジターセンターでも係員に見せるだけでスムーズに入場できます。パスポートの提示を求められる場合もあるため、必ず携帯してください。

ジョーダン・パスを購入しない場合は、ビジターセンターで当日券を購入します。料金は滞在日数によって異なり、1日券で50JD、2日券で55JDです(料金は変更される可能性があるため、公式サイトで最新情報を確認してください)。

遺跡内の歩き方:おすすめルートと見どころ

ペトラ遺跡はとにかく広大で、1日で全てを見て回るのは困難です。見たい場所の優先順位を付け、効率的に巡ることをおすすめします。代表的な定番ルートは以下の通りです。

  • ビジターセンター → シーク → エル・ハズネ(宝物殿)
  • ここまではペトラ観光の前半のハイライトです。ビジターセンターからシークの入口まで約800m、シーク内部が約1.2kmで、ゆっくり歩くと片道45分から1時間ほどかかります。シークの神秘的な雰囲気を味わいながら進むと、岩の間からエル・ハズネが見える瞬間は忘れられない感動を与えてくれます。
  • エル・ハズネ → 列柱通り → 大神殿 → エド・ディル(修道院)
  • エル・ハズネの奥にはローマ劇場や王家の墓、列柱通りなど広大な遺跡群が広がっています。体力に自信がある方は、ぜひ最終目的地のエド・ディルを目指しましょう。エド・ディルはエル・ハズネを凌ぐ大きさで、丘の上にそびえる壮大な建造物です。大神殿脇から続く800段以上の階段はかなりハードですが、達成感と絶景は格別。大神殿からエド・ディルまでは、上りに1時間から1時間半程度見ておくと良いでしょう。
  • 体力に自信がない方へ:
  • 遺跡内には馬、ロバ、ラクダ、そしてシーク内を走る馬車といった乗り物があります。特にエド・ディルに向かう急な登り道ではロバの利用者も多いです。ただし料金は交渉制で、客引きも多いため、事前に相場を把握し納得の上で利用しましょう。動物の扱いに気を遣う方は、自身の判断で利用を検討してください。

持ち物と服装のポイント:砂漠の遺跡を快適に歩くために

ペトラ観光を成功させるためには、持ち物と服装の準備が不可欠です。

  • 必携アイテム:
  • 歩きやすい靴: 最も重要です。スニーカーやトレッキングシューズがおすすめ。サンダルは避けましょう。
  • 水分: 脱水症状防止のため、最低1.5リットル以上持参してください。遺跡内でも購入可能ですが値段が高めです。
  • 帽子、サングラス、日焼け止め: 強烈な日差し対策は必須です。
  • 軽食・スナック: 遺跡内は広く、飲食できる場所が限られるため、チョコレートやナッツなどエネルギー補給できるものを持っていると便利です。
  • モバイルバッテリー: 写真撮影や地図アプリ使用でスマホのバッテリーが予想以上に消耗します。
  • 現金: 飲み物代や一部トイレの利用料、ロバの料金などは現金(ヨルダン・ディナール)が必要です。
  • 服装の注意点:
  • ヨルダンはイスラム教国です。多くの観光客が訪れますが、文化を尊重し過度な露出(タンクトップやショートパンツなど)は控えましょう。特に女性は肩と膝を隠す服装が好ましく、周囲の視線も気にならず快適に過ごせます。
  • 直射日光を避け、体温調節しやすい通気性の良い長袖シャツやストールも重宝します。
  • 禁止事項:
  • ドローンの飛行は特別な許可なしには厳禁です。
  • 遺跡の岩に登ったり傷つける行為は固く禁止されています。
  • ゴミは必ず持ち帰り、美しい遺跡を将来に残すためのマナーを守りましょう。

トラブル対策:知っておくと安心なポイント

海外旅行では予期せぬトラブルも起こり得ますが、事前に対策を知っておけば安心です。

  • しつこい客引き: ペトラでは土産物店やロバ使いからの勧誘が非常に多いです。不要な場合は笑顔で、はっきりと「No, thank you」やアラビア語で「La, shukran(ラ・シュクラン)」と断りましょう。曖昧な態度は避けてください。
  • 体調不良: 熱中症予防が最重要です。こまめな水分補給や適度な休憩を心がけ、体調不良を感じたら速やかに日陰で休みましょう。ビジターセンター近くにはクリニックもあります。
  • チケット紛失: ジョーダン・パスは電子データなので、スマホやメール、クラウドに複数保存しておくと安心です。紙のチケット紛失時の再発行は原則困難なため、管理は念入りに。
  • 悪天候による閉鎖: 冬季の大雨時には鉄砲水の危険があるため、シークが閉鎖される場合があります。非常に稀ですが、念のため現地の天気予報や公式情報を事前に確認しておくことをおすすめします。

ペトラの衰退と再発見。歴史の光と影

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あれほどの繁栄を誇ったペトラが、どうして歴史の舞台から姿を消してしまったのでしょうか。その背後には、抗し難い時代の大きな変動がありました。

交易ルートの移り変わりとローマ帝国の隆盛

ペトラの繁栄の基盤となっていた「香料の道」は、時代の流れとともにその重要性が揺らいでいきます。ローマ帝国がエジプトを支配すると、紅海を活用した海上交易ルートが発達しました。船舶による輸送は、キャラバンで陸路を長距離移動するよりもはるかに効率的で、コストも低減できたのです。その結果、ペトラを経由する陸上ルートの交通は徐々に減少し、中継貿易都市としてのペトラの優位は失われていきました。

さらに、西暦106年にナバテア王国が平和的にローマ帝国に編入されると、ペトラは帝国内の一地方都市に転じました。ローマはシリアのパルミラなど別の都市を地域交易の拠点として重視し始め、ペトラの経済的重要性は一層低下していったのです。時代の主役は、陸の民であるナバテア人から、海の民ローマ人へと移っていったと言えます。

大地震とイスラム化の波

経済的な衰退に輪をかけて打撃を与えたのが、自然災害でした。西暦363年、この地を大規模な地震が襲い、ペトラの多くの建造物が倒壊し、都市は大きな被害を受けました。特に致命的だったのは、ナバテア人が誇った水利システムの破壊です。生命線を絶たれた都市の機能は麻痺し、多くの住民がペトラを離れたと考えられています。

その後も都市自体は残りましたが、かつての栄光を取り戻すことは叶いませんでした。7世紀にイスラム帝国がこの地を支配すると、地域の中心はダマスカスなどに移り、ペトラは次第に忘れ去られる存在となっていきました。十字軍の時代には一時的に砦が築かれましたが、それも短期間で終わり、やがて地元のベドウィン族だけがその存在を知る伝説の都となったのです。

探検家ブルクハルトによる「再発見」の物語

こうして約1200年間、西洋の世界から完全に忘れられていたペトラ。眠れる古都を再び歴史の表舞台に引き戻したのが、前述のスイス人探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトでした。アラビア語とイスラム文化に通じていた彼は、アラブ商人に変装してシリアを探検中、「モーセの谷(ワディ・ムーサ)の近くに失われた古代都市の遺跡がある」という噂を耳にします。

強い好奇心に駆られたブルクハルトは1812年、預言者アロン(モーセの兄)の墓に生贄を捧げるという口実を設け、疑い深いベドウィンの案内人を説得して禁断の地へ足を踏み入れました。狭いシークを抜けた先に壮麗なエル・ハズネが現れたとき、彼はここが自分が探し求めていた伝説の都市ペトラだと確信しました。この彼の冒険的な「再発見」が、その後の考古学的調査のきっかけとなり、私たちが現代にペトラを訪れることができる道を開いたのです。

砂漠の記憶を未来へ。ペトラが私たちに語りかけるもの

なぜペトラは砂漠の奥深くに築かれたのか。その理由は決して一つには絞れません。外敵から身を守るための「自然の要塞」としての地形的な利便性、限られた水資源を巧みに管理した驚異的な「水利技術」、そして時代の交易路であった「香料の道」の要衝という地理的優位性。これらがナバテア人の緻密な「交易戦略」と見事に融合した結果だったのです。

ペトラはただ美しい遺跡というだけではありません。過酷な自然環境に適応し、国際的な情勢を巧妙に利用して繁栄を築いた古代の人々の逞しい生命力と卓越した知恵がそこには凝縮されています。岩を掘り抜いた壮大な神殿や墓は、彼らの存在を示す証であると同時に、私たち後世の者に届けられた静かなメッセージでもあります。

この記事を通じて、ペトラ遺跡の深遠な魅力の一端に触れていただければ幸いです。ただし、写真や言葉だけでは伝えきれないその圧倒的なスケール感や、肌で感じる歴史の重厚さは、現地で実際に体験してこそ味わえるものです。ぜひシークの道を歩き、岩間からエル・ハズネが現れる感動の瞬間を直に感じてください。砂漠の風に身を委ねながら、時を超えて響くナバテア人の声に耳を傾けてみるのもよいでしょう。ペトラは訪れるすべての人に、忘れがたい感動と歴史のロマンを与えてくれるはずです。

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この記事を書いたトラベルライター

旅行代理店で数千人の旅をお手伝いしてきました!今はライターとして、初めての海外に挑戦する方に向けたわかりやすい旅ガイドを発信しています。

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