フランスの東の果て、ドイツとの国境に寄り添うように佇む街、ストラスブール。運河が網の目のように巡り、コロンバージュと呼ばれる木骨組の家々が絵本のような風景を描き出すこの街は、旧市街「グラン・ディル」がまるごと世界遺産に登録されています。歴史が幾重にも織りなす街並みは、歩いているだけで心が躍る、まさに生きた美術館のよう。
尖塔が天を突く壮麗なノートルダム大聖堂、水面に映る家並みが美しい「プティット・フランス」。そんなロマンティックな風景に魅せられ、私はこの街を訪れました。アパレル企業で働きながら、長期休暇のたびにヨーロッパを巡る旅を続けていますが、ストラスブールはいつか必ず訪れたいと願っていた特別な場所。その理由は、この街が持つ独特の文化と、そして何よりも、私の心を捉えて離さない「甘い宝石」たち、パティスリーの存在でした。
フランスでありながら、ドイツの文化を色濃く反映したアルザス地方。その独自の食文化は、お菓子作りにおいても唯一無二の輝きを放ちます。伝統的なクグロフの素朴な温かみから、現代のパティシエが創造するアートのように洗練されたケーキまで、ストラスブールのパティスリーは驚くほど多彩な表情を見せてくれるのです。それはまるで、最新のトレンドと普遍的な美しさが共存するファッションの世界のよう。
この街では、パティスリーを巡ることは単なる食べ歩きではありません。それは、ストラスブールの歴史と文化を五感で味わう、知的な冒険であり、美意識を磨く旅。この記事では、私が実際に足を運び、心から感動したストラスブールのパティスリーの数々を、その魅力や背景とともに詳しくご紹介します。伝統の味を守り続ける老舗から、革新的なアイデアで人々を驚かせる新星まで。ショーケースに並ぶ宝石のようなお菓子たちとの出会いは、あなたの旅をきっと忘れられないものにしてくれるはずです。
さあ、甘美な香りに誘われて、ストラスブールのパティスリーを巡る旅へと出かけましょう。
ストラスブールとアルザス菓子、その甘い物語
ストラスブールのパティスリーを深く味わうためには、まずこの土地が育んできた独自の文化と歴史を知ることが欠かせません。なぜこの街のお菓子は、これほどまでに私たちの心を惹きつけるのでしょうか。その秘密は、フランスとドイツ、二つの大国の間で揺れ動いてきたアルザス地方の数奇な運命の中に隠されています。
なぜストラスブール? 街の歴史と食文化の交差点
ストラスブールは、その地理的な位置から、古くから交通の要衝として栄えてきました。ライン川を挟んでドイツと向かい合うこの土地は、フランス王国に併合されたり、ドイツ帝国領になったりと、その帰属が幾度となく変わってきた歴史を持ちます。街を歩けば、フランス語とドイツ語が混じり合ったアルザス語の響きが聞こえ、建物の様式や人々の暮らしの中に、二つの文化が融合した独特の空気が流れているのを感じ取ることができるでしょう。
ストラスブールのホテル記事はこちら。
この文化のハイブリッド性は、食文化、とりわけお菓子の世界に最も顕著に表れています。フランス菓子が持つ繊細さ、華やかさ、洗練された技術。そして、ドイツ菓子が持つ素朴さ、力強さ、スパイスやドライフルーツを多用する豊かな味わい。この二つの潮流がストラスブールという坩堝(るつぼ)の中で混ざり合い、独自の進化を遂げたのが、アルザス菓子なのです。
例えば、バターと卵をたっぷり使ったリッチな生地はフランス的ですが、そこにシナモンやアニスといったスパイスを効かせたり、どっしりとした焼き菓子に仕上げたりする点はドイツの影響を感じさせます。この絶妙なバランス感覚こそが、アルザス菓子の奥深い魅力の源泉。他のどの地方にもない、ここだけの味わいを生み出しているのです。
さらに、ストラスブールは「クリスマスの首都(Capitale de Noël)」と称されるほど、クリスマスマーケットで世界的に有名です。1570年に始まったとされるこの伝統は、ヨーロッパで最も古いものの一つ。クリスマスが近づくと、街はイルミネーションとデコレーションで輝き、広場にはヒュッテ(木の小屋)が立ち並びます。この時期、街中が甘い香りに包まれるのをご存知でしょうか。そう、クリスマスに欠かせないスパイスを効かせた焼き菓子やホットワインの香りです。パン・デピスやブレデル(クリスマスクッキー)など、多くのお菓子がこの祝祭の季節と深く結びついて発展してきました。パティスリーを巡ることは、この街の心温まるクリスマスの精神に触れることでもあるのです。
歴史と文化が交差し、祝祭の喜びがお菓子作りの伝統を育んできた街。だからこそ、ストラスブールのパティスリー巡りは、ただ甘いものを食べる以上の、深く豊かな体験となるのです。
アルザスを代表するお菓子たち
ストラスブールのパティスリーのショーケースを彩る、個性的で魅力あふれるお菓子たち。ここでは、訪れる前にぜひ知っておきたい、アルザス地方を代表するスペシャリテをいくつかご紹介します。これらを知っておけば、お店選びや注文がもっと楽しくなるはずです。
クグロフ (Kouglof)

アルザスを象徴するお菓子といえば、まずクグロフを挙げないわけにはいきません。斜めに溝が入った王冠のような独特の形、てっぺんのくぼみに飾られたアーモンド。その姿は一度見たら忘れられないほどの存在感を放っています。
ブリオッシュに近いリッチな生地を、専用のクグロフ型で焼き上げたこのお菓子は、見た目の華やかさとは裏腹に、どこか素朴で家庭的な温かみを感じさせます。酵母で発酵させた生地にはバターと卵がふんだんに使われ、しっとりとしていながらも、ふんわりと軽い食感。中にはラム酒に漬けられたレーズンがたっぷりと練り込まれており、噛みしめるたびに芳醇な香りが口いっぱいに広がります。仕上げに振りかけられた粉糖が、優しい甘さを添えます。
朝食にカフェオレと合わせるのが定番ですが、午後のティータイムにもぴったり。甘さ控えめのものや、ベーコンやナッツを入れた塩味の「クグロフ・サレ」もあり、アペリティフ(食前酒)のお供としても親しまれています。マリー・アントワネットが愛したお菓子としても知られ、その歴史は古く、多くの伝説に彩られています。ストラスブールを訪れたなら、まずは本場のクグロフを味わってみてください。
パン・デピス (Pain d’épices)

直訳すると「スパイスのパン」。その名の通り、シナモン、クローブ、ナツメグ、アニス、ジンジャーといった多彩なスパイスと、たっぷりの蜂蜜を使って作られる焼き菓子です。ライ麦粉をベースにした生地はどっしりと重厚で、その深い茶色は見るからに豊かな味わいを想像させます。
その起源は古代エジプトやローマにまで遡るとも言われ、十字軍によってヨーロッパに伝えられたとされています。特にアルザス地方では中世から作られており、クリスマスマーケットには欠かせない存在。店先に積み上げられたパン・デピスは、冬の風物詩です。
一口食べると、まず蜂蜜の濃厚な甘みとコク、そして追いかけるように複雑なスパイスの香りが鼻腔をくすぐります。食感はしっとり、もっちり。日持ちがするため、お土産にも最適です。シンプルな長方形のもののほか、可愛らしいハート型や人形の形をしたもの、アイシングで美しく装飾されたものなど、バリエーションも豊か。フォアグラに添えて食べるのもアルザス流の粋な楽しみ方です。
タルト・アルザシエンヌ (Tarte Alsacienne)

アルザス風タルトは、シンプルながらも素材の良さが際立つ、家庭的な温もりに満ちた一品です。基本は、パート・ブリゼ(練りパイ生地)の器に、フルーツを並べて焼き上げたもの。特に旬の時期に作られるミラベル(西洋スモモ)やクエッチ(紫スモモ)、リンゴのタルトは絶品です。
このタルトの特徴は、アパレイユ(卵液)にあります。卵、砂糖、そして生クリームやフロマージュ・ブラン(フレッシュチーズ)を混ぜ合わせたものをフルーツの上から流しかけて焼くことで、カスタードプリンのような、とろりとなめらかな食感が生まれます。フルーツの酸味とアパレイユの優しい甘みが絶妙に調和し、後を引く美味しさ。気取らない見た目ですが、一度食べればその深い味わいの虜になることでしょう。パティスリーの店先で焼き立ての香りが漂ってきたら、ぜひ一切れ味わってみてください。
絶対に外せない、ストラスブールの名門パティスリー
さて、アルザス菓子の魅力に触れたところで、いよいよストラスブールが誇る名パティスリーの世界へご案内しましょう。伝統を守り続ける老舗から、革新的なクリエイションで世界を驚かせるスターパティシエのお店まで、それぞれに個性と物語があります。ここでは、私が実際に訪れ、その味と世界観に深く感銘を受けた4軒を厳選してご紹介します。
Pâtisserie Christian (クリスチャン)

ストラスブールのパティスリーを語る上で、この店の名を外すことはできません。「Pâtisserie Christian」は、1960年創業の老舗でありながら、常に進化を続ける、まさにこの街のスイーツシーンを牽引する存在です。ノートルダム大聖堂のすぐ近く、そしてプティット・フランス地区にも店舗を構え、そのどちらもが洗練された雰囲気で訪れる人々を魅了します。
伝統と革新が溶け合う、アートのようなケーキ
クリスチャンのショーケースは、息をのむほどに美しい。まるで宝石箱をひっくり返したかのように、色とりどりのケーキやプチガトーが整然と並んでいます。その一つひとつが、寸分の狂いもなく計算され尽くした、芸術作品のような完成度。伝統的なアルザス菓子への敬意を払いながらも、そこに現代的な感性と革新的な技術を加え、全く新しい味覚の世界を創造しています。
例えば、チョコレート系のケーキ一つとっても、カカオの産地や種類にこだわり、ムース、ガナッシュ、ビスキュイといった異なる食感と風味を幾層にも重ねることで、複雑で奥行きのある味わいを生み出しています。フルーツを使ったタルトは、旬の素材の瑞々しさを最大限に引き出し、ハーブやスパイスを巧みに使うことで、香りに驚きと感動を与えてくれます。そのクリエイションは、まるでハイブランドのコレクションのよう。定番のアイテムがありながらも、シーズンごとに新しい作品が登場し、訪れるたびに新鮮な発見があるのです。
私が訪れた際にいただいた「L’Éclat」という名のケーキは、ラズベリーの鮮やかな赤色が美しいムースケーキでした。口に含んだ瞬間に広がるベリーの酸味と華やかな香り、それを優しく包み込むホワイトチョコレートのまろやかな甘み、そして土台のピスタチオのビスキュイがもたらす香ばしさと食感のアクセント。全ての要素が完璧なバランスで調和し、口の中で見事なシンフォニーを奏でるのです。これはもはや単なるお菓子ではなく、一つの完成された物語を味わうような体験でした。
エレガントなサロン・ド・テで過ごす至福の時間
クリスチャンの魅力は、テイクアウトだけにとどまりません。店舗の2階には、優雅な「サロン・ド・テ(ティールーム)」が併設されています。クラシックで落ち着いたインテリア、丁寧なサービス、そして窓から差し込む柔らかな光。日常の喧騒を忘れさせてくれる、まさに大人のための空間です。
ここで、ショーケースから選んだお気に入りのケーキを、香り高い紅茶やコーヒーと共にいただく時間は、旅のハイライトとなること間違いありません。特に大聖堂前の店舗のサロン・ド・テからは、窓越しにカテドラルの荘厳な姿を眺めることができ、そのロケーションは格別です。美しいケーキを味わいながら、歴史的な建造物を望む。これほど贅沢なティータイムが他にあるでしょうか。
メニューにはケーキだけでなく、ショコラ・ショー(ホットチョコレート)もおすすめです。クリスチャンのショコラティエとしての実力が存分に発揮された一杯は、濃厚でビター、カカオ本来の芳醇な香りが身体中に染み渡るようです。歩き疲れた身体を癒し、心に豊かな潤いを与えてくれる、魔法のようなドリンクです。
おすすめの逸品とテイクアウトの楽しみ方
クリスチャンでぜひ試していただきたいのは、やはり季節のフルーツを使ったプチガトー。パティシエの創造性が最も発揮される分野であり、その時期にしか出会えない特別な味覚体験が待っています。また、アルザス地方の伝統菓子であるクグロフも、クリスチャンが作ると驚くほど洗練された味わいに。上質なバターの香りと、しっとりとした口溶けは、一度食べたら忘れられません。
お土産には、美しいパッケージに詰められたマカロンやチョコレートが最適です。特に「タング・ド・シャ(猫の舌)」と呼ばれる薄い板チョコレートは、様々なフレーバーがあり、選ぶのも楽しい一品。洗練されたデザインの箱は、大切な人への贈り物にも喜ばれることでしょう。テイクアウトしたケーキを、ホテルの部屋でゆっくりと味わうのも素敵な時間。ストラスブールの夜景を眺めながら、一日の思い出に浸る。そんな贅沢な締めくくりも、旅の醍醐味です。
Pâtisserie Naegel (ネゲル)

大聖堂からほど近い、活気ある通りに店を構える「Pâtisserie Naegel」。1925年創業という長い歴史を持つこのお店は、クリスチャンのような洗練された高級店とはまた一味違った、地元の人々に深く愛される温かみに満ちたパティスリーです。朝早くから店の前には行列ができ、その賑わいからも、この店がストラスブールの人々の日常にどれほど溶け込んでいるかがうかがえます。
地元民に愛される、温かみのある老舗
ネゲルの魅力は、その親しみやすさと圧倒的な品揃えにあります。店の扉を開けると、甘く香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐり、目の前にはところ狭しと並べられたお菓子たちのパノラマが広がります。クラシックなケーキ、色とりどりのタルト、山と積まれたヴィエノワズリー(菓子パン)、そしてアルザス地方の伝統的な焼き菓子。そのどれもが、奇をてらうことのない、誠実で実直な美味しさを湛えています。
ショーケースを眺めていると、地元のお客さんが店員さんと楽しそうに言葉を交わしながら、手慣れた様子でいつものパンやお菓子を買っていく光景を目にします。観光客だけでなく、毎日の食卓のために訪れる人々で溢れているのです。こうした光景は、この店が長年にわたって信頼を築き、街の生活の一部となってきた証拠。旅先でそんなローカルな空気に触れられるのは、とても嬉しい体験です。
宝石のように輝くヴィエノワズリーと惣菜パン
ネゲルを訪れたなら、まず注目してほしいのがヴィエノワズリーのコーナーです。クロワッサンやパン・オ・ショコラはもちろんのこと、アルザスらしいプレッツェル、カスタードクリームがたっぷり入ったパンなど、その種類は実に豊富。朝日に照らされて黄金色に輝くパンたちは、見ているだけで幸せな気持ちになります。
私が特におすすめしたいのは、シンプルなクロワッサン。外側はハラハラと崩れるほどにサクサクで、中はしっとりとした層が美しい。一口かじれば、上質な発酵バターの芳醇な香りが口いっぱいに広がり、思わずため息が漏れるほどの美味しさです。このクロワッサンとコーヒーさえあれば、最高のストラスブールの朝が始まります。
また、ネゲルはパティスリーでありながら、トゥールト(肉のパイ包み)やキッシュ、サンドイッチといった惣菜(トラiteur)も非常に充実しています。ランチタイムには、これらの惣菜を買い求める人々でさらに賑わいます。美しいイル川のほとりのベンチで、ネゲルのキッシュを頬張る。そんな手軽で美味しいピクニックランチも、ストラスブールならではの楽しみ方です。
朝食にもランチにも。日常に寄り添う美味しさ
ネゲルには小さなイートインスペースもありますが、基本的にはテイクアウトがメイン。朝、焼きたてのヴィエノワズリーを買って一日の始まりに。昼には、具沢山のサンドイッチで手軽なランチを。そして午後には、フルーツタルトで甘い休憩時間を。ネゲルは、一日のあらゆるシーンで私たちの食を豊かにしてくれる、まるで街のキッチンのような存在です。
お土産には、アルザス地方の伝統的な焼き菓子、ブレデル(クリスマスの時期に焼かれるクッキー)やパン・デピスがおすすめです。素朴ながらも滋味深い味わいは、どこか懐かしく、心温まる美味しさ。袋にぎっしりと詰められたクッキーは、旅の思い出を分かち合うのにぴったりです。高級店の洗練された味も素晴らしいですが、ネゲルのような日常に寄り添う実直な美味しさは、旅人の心と胃袋を優しく満たしてくれる、かけがえのない存在なのです。
Pâtisserie Thierry Mulhaupt (ティエリー・ミュロップ)

ストラスブールのスイーツ界に、モダンで刺激的な風を吹き込んでいるのが「Pâtisserie Thierry Mulhaupt」です。オーナーシェフのティエリー・ミュロップ氏は、数々のコンクールで受賞歴を持つ実力派。彼の創り出すお菓子は、伝統的な枠組みにとらわれない、自由で大胆な発想に満ちています。特にショコラティエとしての評価は非常に高く、「ショコラの魔術師」とも呼ばれるほど。アートやデザインに興味がある方なら、必ずや彼の世界観に魅了されることでしょう。
ショコラの魔術師が紡ぐ、モダンな創造性
ティエリー・ミュロップのブティックは、まるで現代アートのギャラリーのような、ミニマルで洗練された空間です。そこに並ぶケーキやチョコレートは、一つひとつが計算し尽くされたデザイン。シャープなフォルム、鮮やかな色彩、意表を突く素材の組み合わせ。そのどれもが、これまでのパティスリーの概念を覆すような斬新さに溢れています。
彼の真骨頂は、やはりチョコレートを使ったクリエイションにあります。世界中から厳選したカカオ豆を使い、その個性を最大限に引き出すための焙煎、配合を自ら行っています。ボンボンショコラ一つとっても、ユズやパッションフルーツといった柑橘との組み合わせ、あるいはバジルやタイムといったハーブ、さらには山椒や唐辛子などのスパイスを効かせたものまで、その探究心はとどまるところを知りません。口に入れた瞬間に訪れる、味と香りの鮮烈なコントラスト。それはまさに、味覚の冒険です。
見た目も味もサプライズに満ちたケーキたち
ミュロップ氏のケーキは、食べる前から私たちを楽しませてくれます。球体やピラミッド型といった幾何学的なフォルム、鏡のように磨き上げられたグラサージュ(上掛け)、エアブラシで描かれた繊細な模様。その見た目は、食べるのがためらわれるほどの美しさです。
しかし、その本当の驚きは、フォークを入れた瞬間に始まります。見た目からは想像もつかないような、複雑な味の構成が隠されているのです。例えば、シンプルなチョコレートムースに見えて、中にはマンゴーのクーリ(ソース)やココナッツのダックワーズが忍ばせてあったり、ピスタチオのケーキにチェリーとトンカ豆の香りを組み合わせたり。一口ごとに新しい発見があり、最後まで飽きさせません。
私が試した「Zen」という名のケーキは、抹茶とホワイトチョコレートのムースの中に、ラズベリーのジュレが隠された逸品でした。抹茶のほろ苦さとホワイトチョコレートの優しい甘み、そしてラズベリーの鮮烈な酸味。三つの要素が互いを高め合い、口の中で「静寂(Zen)」という名にふさわしい、完璧な調和を生み出していました。それはまるで、緻密に設計された建築物を探訪するような、知的な興奮を伴う体験でした。
季節限定コレクションは見逃せない
ファッションブランドがシーズンごとにコレクションを発表するように、ティエリー・ミュロップでも季節ごとにテーマを設けた限定コレクションが登場します。春には花やハーブをテーマに、夏にはトロピカルフルーツを、秋には栗やキノコ、冬にはスパイスや柑橘を、といった具合に、旬の素材と彼のイマジネーションが融合した、その時にしか味わえない特別なケーキがショーケースを彩ります。
この限定コレクションを求めて、足繁く通うファンも少なくありません。ストラスブールを訪れる時期が決まったら、ぜひ彼のウェブサイトやSNSをチェックしてみてください。あなたの旅が、彼のクリエイティブなシーズンの真っ只中と重なるかもしれません。斬新で、美しく、そして何よりも美味しい。ティエリー・ミュロップのお菓子は、ストラスブールのパティスリーシーンの最先端を体感できる、刺激的なデスティネーションなのです。
Pâtisserie Litzler-Vogel (リッツラー・フォーゲル)

ここまで紹介してきた3軒がグラン・ディル(旧市街中心部)に店を構えるのに対し、「Pâtisserie Litzler-Vogel」は、少しだけ中心から離れた住宅街にひっそりと佇んでいます。観光客で賑わうエリアではないからこそ、そこにはより深く、誠実な、ストラスブールの日常の味が息づいています。華やかさや斬新さを追い求めるのではなく、何世代にもわたって受け継がれてきたレシピを、ただひたすらに守り続ける。そんな職人の矜持を感じさせる、珠玉のパティスリーです。
昔ながらのレシピを守る、素朴で優しい味わい
店の構えは、いたってシンプル。大きなガラス窓から、温かな光が灯る店内がのぞめます。中に入ると、バターと砂糖の焼ける、どこか懐かしい香り。ショーケースに並ぶのは、エクレアやミルフィーユ、サントノーレといった、フランス菓子の偉大なクラシックたちです。その姿は、流行のパティスリーのように洗練されてはいないかもしれません。しかし、一つひとつが丁寧に、愛情を込めて作られていることが一目でわかります。
ここのお菓子の特徴は、その飾り気のない、実直な美味しさです。良質な素材の味をストレートに活かし、余計なものを加えない。一口食べれば、その優しく、じんわりと心に染み渡るような味わいに、ほっと心が和むのを感じるでしょう。それはまるで、おばあちゃんが作ってくれた手作りのおやつのような、安心感に満ちた味。最新のデザインを追いかけるファッションの世界に身を置いていると、時々こうした普遍的で変わらないものの価値に、強く心を惹かれることがあります。リッツラー・フォーゲルのお菓子は、まさにそんな存在です。
名物クグロフを求めて
リッツラー・フォーゲルを訪れる多くの人々のお目当ては、クグロフです。地元では「ここのクグロフが一番」という声も多く聞かれるほど、絶大な支持を集めています。ショーケースの上には、大小さまざまなサイズのクグロフがずらりと並び、壮観な眺め。
ここのクグロフは、伝統的な製法に忠実に作られています。発酵に時間をかけ、じっくりと焼き上げることで生まれる、驚くほどしっとりとした食感。生地に練り込まれたレーズンは、ラム酒の香りが強すぎず、上品なアクセントになっています。そして何よりも、バターの風味が豊か。シンプルだからこそ、ごまかしが効かない。職人の確かな技術と誠実な仕事ぶりが、この一つのクグロフに凝縮されています。午前中に訪れないと売り切れてしまうこともあるという人気ぶりも、その美味しさの証明です。ストラスブールで最高のクグロフを探しているなら、少し足を延ばしてでも訪れる価値は十分にあります。
心温まるアルザスの家庭の味
クグロフの他にも、この店ではアルザスの家庭で親しまれてきた様々なお菓子に出会えます。旬の果物がたっぷりのったタルト、ナッツが香ばしい焼き菓子、そしてクリスマスシーズンには、多種多様なブレデル。これらのお菓子を一つひとつ眺めていると、アルザスの人々の食卓や、家族団らんの温かな光景が目に浮かぶようです。
店員さんの対応も、とてもフレンドリーで温かい。片言のフランス語でも、一生懸命に聞いてくれて、笑顔でおすすめを教えてくれます。そんな心温まるやり取りも、この店の魅力の一つ。ストラスブールの華やかな表通りだけでなく、地元の人々の暮らしが息づく裏通りへ。リッツラー・フォーゲルは、そんな小さな冒険の先に待っている、とっておきの宝物のようなパティスリーです。
もっと深く楽しむ、パティスリー巡りのヒント
ストラスブールの素晴らしいパティスリーの数々。ただ訪れるだけでも十分に楽しいですが、いくつかのポイントを押さえておくと、その体験はさらに豊かで思い出深いものになります。ここでは、プロの旅ライターとして、そして一人のスイーツを愛する女性として、パティスリー巡りを120%楽しむためのヒントをお伝えします。
最高のパティスリー体験をするための時間帯
お目当てのケーキやパンに確実にありつくためには、訪れる時間帯が非常に重要です。特に人気店では、時間帯によって品揃えが大きく変わります。
最もおすすめなのは、平日の午前中です。開店直後から11時頃までは、焼きたてのヴィエノワズリーが最も豊富に揃い、ショーケースには作りたてのケーキがずらりと並びます。店内も比較的空いていて、ゆっくりと商品を選んだり、店員さんに質問したりすることができます。朝食に焼きたてのクロワッサンを、そしてお昼に向けてケーキをいくつかテイクアウトする、というのが理想的な動き方です。
ランチタイム(12時〜14時頃)は、惣菜パンやサンドイッチを買い求める地元の人で混雑します。この時間帯は、活気ある雰囲気を楽しむには良いですが、ゆっくり選びたい方には少し慌ただしいかもしれません。
そして注意したいのが、午後遅くの時間帯。人気のケーキは売り切れてしまっている可能性が高くなります。特に週末の午後は、ショーケースが寂しくなっていることも珍しくありません。「絶対にこれが食べたい!」という目当てがある場合は、必ず午前中に訪れるか、可能であれば事前に電話で取り置きをお願いするのが確実です。せっかく訪れたのに、お目当てがなくてがっかり…という事態は避けたいですよね。
おしゃれに楽しむためのドレスコードとマナー
パティスリー巡りは、美味しいお菓子を味わうだけでなく、その店の世界観や街の雰囲気を楽しむ絶好の機会。せっかくなら、ファッションも少し意識して、旅の気分を盛り上げたいものです。
ストラスブールの街並みは、石畳が多く、歴史的な建造物が並ぶシックな雰囲気。アパレル企業で働く私の視点から提案するなら、テーマは「歩きやすさとエレガンスの両立」です。靴は、石畳でも疲れにくいフラットシューズや、安定感のあるブロックヒールのものがおすすめ。スニーカーでも、上質なレザーのものなどを選ぶとカジュアルになりすぎません。
服装は、リネンやコットンのワンピース、きれいめのブラウスにワイドパンツやロングスカートを合わせるなど、少しリラックス感がありつつも上品に見えるスタイルが良いでしょう。特にプティット・フランスのパステルカラーの家並みを背景に写真を撮るなら、白やベージュ、アースカラーといったベーシックな色合いの服が美しく映えます。
サロン・ド・テで優雅な時間を過ごす場合は、少しだけドレスアップを意識すると、より特別な体験になります。大ぶりのアクセサリーを一つ加えたり、きれいな色のスカーフを巻いたりするだけで、ぐっと華やかな印象に。ただし、過度な露出やラフすぎる服装(ショートパンツやビーチサンダルなど)は、お店の雰囲気にそぐわない場合があるので避けましょう。
マナーとしては、店内では大声で話さず、静かに過ごすのが基本です。写真を撮る際は、他のお客さんが写り込まないように配慮し、フラッシュは必ずオフに。ショーケースの写真を撮りたい場合は、一言「写真を撮ってもいいですか?(Puis-je prendre une photo?)」と尋ねるのがスマートです。ほとんどのお店は快く許可してくれますが、その一言があるだけで、お互いに気持ちが良いものです。
お土産選びのコツ – 日本まで美味しく持ち帰るには?
旅の思い出を分かち合うため、また自分へのご褒美として、パティスリーでお土産を選ぶのも大きな楽しみの一つ。しかし、繊細なお菓子を日本まで無事に持ち帰るには、少しコツが必要です。
まず、持ち帰りに適しているのは、クッキーやサブレ、パン・デピス、フィナンシェ、マドレーヌといった日持ちのする焼き菓子(ガトー・ド・ヴォワヤージュ=旅するお菓子、とも呼ばれます)や、チョコレート、パート・ド・フリュイ(フルーツゼリー)などです。これらは常温で保存でき、型崩れの心配も少ないため、長距離の移動にも耐えられます。
お店で買う際には、「日本まで持ち帰りたいのですが(C’est pour emporter au Japon)」と伝えると、より頑丈な箱に入れてくれたり、丁寧に包装してくれたりすることがあります。特にチョコレートは、割れにくいように缶入りのものを選ぶのがおすすめです。
パッキングの際は、まずお店の箱や袋のまま、さらに衣類などの柔らかいもので包んでスーツケースの中心部に入れます。こうすることで、衝撃から守ることができます。夏場にチョコレートを持ち帰る場合は、保冷バッグと小さな保冷剤を用意しておくと安心ですが、預け荷物は低温になるため、そこまで神経質になる必要はないかもしれません。
逆に、生クリームやムースを使ったケーキ、フルーツがのったタルトなどは、残念ながら持ち帰りには不向きです。これらの繊細な美味しさは、ぜひストラスブール滞在中に心ゆくまで味わってください。その場でしか体験できない味覚こそ、旅の最も贅沢な思い出となるのですから。
甘いだけじゃない、ストラスブールの魅力
ストラスブールの旅は、パティスリー巡りだけで終わらせるにはあまりにもったいない。甘い香りに満たされた後は、この街が持つ奥深い歴史と芸術の世界にも足を踏み入れてみましょう。スイーツ巡りの合間に街を散策し、文化に触れることで、旅はより立体的で忘れられないものになります。
世界遺産グラン・ディルを散策
ストラスブールの心臓部であるグラン・ディルは、イル川に囲まれた中州に広がる旧市街。このエリア全体が世界遺産に登録されており、一歩足を踏み入れれば、まるで中世にタイムスリップしたかのような感覚に陥ります。
その中心に聳え立つのが、ノートルダム大聖堂です。ピンク色の砂岩で造られたその姿は、時間帯によって表情を変え、見る者を圧倒します。内部のステンドグラスの美しさ、そして天文時計の精巧な仕掛けは必見。体力に自信があれば、ぜひ塔に登ってみてください。332段の螺旋階段を上りきった先には、ストラスブールの赤い屋根瓦の街並みと、遠くドイツの黒い森まで見渡せる絶景が待っています。
大聖堂の喧騒を離れ、南西へ歩を進めると、ストラスブールで最も絵になる地区「プティット・フランス」にたどり着きます。運河沿いに、パステルカラーの木組みの家々が立ち並び、窓辺にはゼラニウムの赤い花が咲き乱れる。かつて皮なめし職人や漁師が暮らしたこのエリアは、どこを切り取ってもポストカードのような美しさです。運河クルーズに参加して、水上からこのユニークな街並みを眺めるのもおすすめです。水門を通過する際の、水位が上下する様子も面白い体験です。
アートと歴史に触れる美術館巡り
アート好きの私にとって、ストラスブールは美術館巡りも大きな楽しみの一つでした。スイーツで舌を、街並みで目を満たした後は、美術館で知的好奇心を満たす時間はいかがでしょうか。
大聖堂のすぐ隣にある「アルザス博物館(Musée Alsacien)」は、特におすすめしたい場所です。古い民家を連結して作られたこの博物館では、18世紀から19世紀にかけてのアルザスの人々の暮らしが、家具や衣装、陶器、そして生活道具の展示を通じてリアルに再現されています。クグロフの型や婚礼の衣装などを見ていると、この地方の文化がより深く理解でき、パティスリー巡りで見たお菓子たちの背景にある物語を感じ取ることができます。
モダンアートが好きなら、「ストラスブール近代・現代美術館(MAMCS)」へ。モネやピカソ、カンディンスキーといった巨匠の作品から、現代アーティストのインスタレーションまで、幅広いコレクションを誇ります。歴史的な街並みの中にある、ガラス張りのモダンな建築も印象的。伝統と現代が共存するストラスブールの姿を象徴しているかのようです。
女性ひとり旅でも安心。安全に旅するためのアドバイス
ヨーロッパ周遊の旅では、常に安全への意識を持つことが大切です。特に女性の一人旅では、ちょっとした注意が快適で安全な旅につながります。ストラスブールは比較的治安の良い街ですが、油断は禁物です。
まず、スリ対策の基本として、バッグは必ず体の前で抱えるように持ち、ファスナーや留め具があるものを選びましょう。カフェやレストランで椅子に荷物を置くのは厳禁です。必ず膝の上に置くか、足の間に挟むようにしてください。
観光客で賑わう大聖堂周辺やプティット・フランスでは、特に注意が必要です。美しい景色に気を取られている瞬間が、スリにとっては絶好のチャンス。貴重品はホテルのセーフティボックスに預け、持ち歩く現金は最小限に。パスポートはコピーを持ち歩き、原本は別に保管しておくと安心です。
夜のひとり歩きは、なるべく避けるのが賢明です。特に駅周辺や、人通りの少ない路地には立ち入らないようにしましょう。ホテルへ帰る際は、トラムやバスといった公共交通機関を利用するか、必要であればタクシーを使いましょう。
こうした基本的なことに気をつければ、ストラスブールは女性一人でも十分に楽しめる、安全で魅力的な街です。美しい街並みと美味しいスイーツ、そして心温かい人々。この街で過ごす時間は、きっとあなたの人生にとって、甘く、きらめく宝物のような思い出となるはずです。





