けたたましいバイクのクラクション、飛び交うベトナム語の熱気、そして、どこからともなく漂ってくる魅惑的なスパイスとハーブの香り。五感が、いや、全身の細胞が「お前は今、ハノイにいるぞ」と告げている。ベトナムの首都、ハノイ。千年以上の歴史を持つこの街は、フランス統治時代の瀟洒な建物と、アジアならではのエネルギッシュな混沌が絶妙に溶け合い、訪れる者を決して飽きさせない。特に旧市街と呼ばれるエリアに足を踏み入れれば、そこはまさに食の迷宮。一歩路地裏に入れば、そこには地元民の笑顔と、湯気の向こうに揺れる人生の味が待っているのだ。俺、スパイスハンター・リョウの旅の目的はただ一つ。「その国で最も辛い料理を食べる」。だが、ハノイの食文化は、ただ辛いだけでは語り尽くせない奥深さがある。酸いも甘いも、そしてもちろん、燃えるような辛さも。すべてをこの身一つ、この胃袋一つで受け止めてやろうじゃないか。さあ、腹を空かせた旅人たちよ。俺と一緒に、ハノイの魂に触れる食の冒険へ出発しよう。まずは、この街の心臓部からだ。
目覚めの一杯は、魂に沁みるスープから。ハノイの朝食文化
ハノイの朝は、驚くほど早い。まだ薄暗い夜明け前から、街は静かに、しかし確実に動き出す。市場へ向かう人々、体操をする老人たち、そして、朝食を求める腹を空かせた民。その喧騒の中心にあるのが、ベトナムを象徴する料理、フォーだ。ハノイの朝は、この一杯のスープから始まると言っても過言ではない。それは単なる食事ではなく、一日のエネルギーをチャージするための神聖な儀式なのだ。
フォー・ボー(牛肉のフォー)の深淵
ハノイでフォーといえば、まず「フォー・ボー(Phở Bò)」、すなわち牛肉のフォーを指すことが多い。鶏肉の「フォー・ガー(Phở Gà)」ももちろん美味いが、牛骨をじっくりと煮込んで作られる、あの深く、滋味豊かなスープこそがハノイ流の真骨頂。俺は夜明けと共にホテルを抜け出し、旧市街の有名店へと足を運んだ。
店の前にはすでに行列ができており、地元民に混じって順番を待つ。店内は活気に満ち溢れ、湯気で少し曇った空間に、スターアニス(八角)やシナモンの甘くエキゾチックな香りが充満している。これだ。この香りだけで、俺の胃袋は完全に戦闘態勢に入る。
席に着くと、メニューはシンプル。「チン(Chín)=よく火が通った肉」か、「タイ(Tái)=半生の肉」か、あるいはその両方か。迷わず両方入った「タイ・チン」を注文する。店主の流れるような手さばきを眺めるのも、また一興。どんぶりに茹で上げたばかりの真っ白な米麺「バイン・フォー」を入れ、その上にスライスされた牛肉を乗せる。そして、寸胴鍋から熱々のスープを注ぐのだ。この瞬間、半生のタイは絶妙な火加減に変わり、柔らかさと肉の旨味を最大限に引き出す。
目の前に置かれた一杯は、芸術品のように美しい。澄んだ琥珀色のスープに、青々としたネギとパクチーが彩りを添える。まずはレンゲでスープを一口。……うまい。うますぎる。牛骨の濃厚な旨味を土台に、ショウガの爽やかさ、そしてシナモンやスターアニスの複雑なスパイスの香りが幾重にも重なり、鼻腔を抜けていく。見た目以上に繊細で、どこまでも優しい味わい。二日酔いの朝に飲んだら、五臓六腑に染み渡り、魂ごと浄化されるような感覚に陥るだろう。
麺はつるりとして喉越しが良く、スープとの絡みも完璧だ。しかし、スパイスハンターとしての本番はここから。テーブルの上には、味変部隊がずらりと並んでいる。刻み唐辛子、唐辛子ペースト(トゥオン・オット)、ニンニク酢、そしてライム。まずはライムをギュッと絞り、爽やかな酸味を加える。これでスープの輪郭がさらにくっきりと際立つ。次に、ニンニク酢を少々。これがまた、スープにパンチと深みを与えてくれるのだ。
そして、いよいよ真打ち登場。刻み唐辛子と唐辛子ペーストを、これでもかと投入する。優しい味わいだったスープは、一瞬にして獰猛な表情を見せる。一口すすると、舌をピリピリと刺激する直接的な辛さと、じんわりと広がる旨辛さが渾然一体となって押し寄せてくる。額から汗が噴き出し、心拍数が上がる。そうだ、これだよ。この刺激こそが、俺が旅に求めるもの。優しいスープの奥に隠された、燃えるような情熱。ハノイのフォーは、ただの麺料理ではない。食べる者の好みで無限に表情を変える、懐の深い一杯なのだ。
もう一つの朝の顔、バインミー
フォーが「静」の朝食なら、「動」の朝食はバインミー(Bánh Mì)だろう。街角の至る所にある屋台で、手軽に買えるベトナム風サンドイッチ。これもまた、ハノイの日常に欠かせない食文化だ。
バイクが行き交う交差点の脇にある、小さな屋台。俺はそこで足を止めた。おばちゃんが一人で切り盛りする、年季の入った屋台だ。ガラスケースには、自家製と思しきパテ、数種類のハム、焼豚、野菜が並んでいる。注文が入ると、まず小ぶりのフランスパンを炭火で軽くリベイクする。これが重要なのだ。外はパリッと、中はふんわりとした食感を生み出すための、大切なひと手間。
パンにナイフで切れ込みを入れると、まずバターと濃厚なレバーパテをたっぷりと塗りたくる。次に、薄切りの焼豚、ベトナムハム、豚皮のハムなどを手際よく挟み込み、その上からキュウリ、大根と人参のなます、そして山盛りのパクチーを押し込む。仕上げにヌックマム(魚醤)ベースのタレと、チリソースをさっと回しかける。あっという間に、具材がはち切れんばかりのバインミーが完成した。
受け取ったバインミーは、まだ温かい。一口かぶりつくと、まずパンのクリスピーな食感に驚かされる。そして、パテの濃厚なコクと肉の旨味、なますの甘酸っぱさ、キュウリの瑞々しさ、パクチーの鮮烈な香りが口の中で大爆発を起こす。甘い、しょっぱい、酸っぱい、辛い、うまい。すべての味覚が完璧なバランスで調和している。これはもはや、単なるサンドイッチではない。フランスとベトナムの食文化が見事に融合した、路上で完成された芸術作品だ。
もちろん、俺は「辛くしてくれ(Cho thêm ớt)」と頼むのを忘れない。おばちゃんはニヤリと笑い、輪切りの生唐辛子を追加で挟んでくれた。ガブリといくと、ダイレクトな辛さが舌を直撃する。だが、その辛さが他の具材の甘みや旨味をより一層引き立てるのだ。ヒーヒー言いながら、バイクの騒音をBGMに頬張るバインミー。これぞ、ハノイのB級グルメの真髄。わずか数万ドン(百数十円)で手に入る、最高の幸せがここにある。
旧市街の迷宮で出会う、一期一会の昼ごはん
朝食で胃袋のエンジンを温めたら、いよいよハノイの心臓部、旧市街の探検だ。かつては絹の通り、銀の通りなど、扱う商品ごとに通りが分かれていたというこのエリアは、今もその名残を残しつつ、無数の飲食店がひしめき合う食のジャングルと化している。地図を片手に歩いても、すぐに迷ってしまうような細い路地。だが、迷うことこそ、この街の楽しみ方。鼻を頼りに、美味しそうな匂いがする方へ。そこにはきっと、忘れられない一皿との出会いが待っている。
炎と煙がご馳走!ブンチャーの熱狂
ハノイの昼食の王様といえば、間違いなくブンチャー(Bún Chả)だろう。かつてオバマ元大統領が訪れたことでも有名になったが、それ以前からハノイっ子たちのソウルフードとして絶大な人気を誇ってきた。店の前を通ると、もうもうと立ち上る煙と、炭火で豚肉が焼ける香ばしい匂いが、抗いがたい力で客を店内に引きずり込む。
俺が選んだのは、観光客向けの綺麗な店ではない。路地に面した、プラスチックの低い椅子とテーブルが並ぶ、ローカル感満載の店だ。店先では、親父さんがうちわで火をおこしながら、タレに漬け込まれた豚バラ肉と、豚ひき肉のつくねを網の上でひっくり返している。ジュージューという音、パチパチと爆ぜる脂、そして立ち上る煙。このライブ感こそが、最高の前菜だ。
席に着くと、注文は聞かれない。ブンチャーは基本的に一択。すぐに、いくつかの皿がテーブルに運ばれてくる。山盛りのブン(bún)と呼ばれる細い米麺、そしてミントやシソ、レタス、バナナの花など、見たこともないようなハーブがてんこ盛りになった大皿。そして主役である、つくねと豚バラ焼肉が入った温かいスープ(タレ)のどんぶり。
このタレが、ブンチャーの命。ヌックマム(魚醤)をベースに、砂糖、酢、ニンニク、唐辛子で味を調えたもので、甘くて、酸っぱくて、少しだけピリ辛。中にはパパイヤやニンジンのスライスが入っており、食感のアクセントになっている。
食べ方は自由だが、セオリーはこうだ。まず、ハーブを好きなだけちぎってタレのどんぶりに入れる。次に、ブンの麺を一口分取り、同じくタレに浸す。そして、タレの中から炭火焼の肉を探し出し、麺とハーブと一緒に一気に口へ運ぶ。
……なんだこれは!革命的だ。炭火の香りをまとったジューシーな豚肉、甘酸っぱいタレ、つるりとした米麺、そして爽やかなハーブの香り。それぞれが主張しながらも、口の中で完璧なハーモニーを奏でる。特に、様々なハーブがもたらす複雑な風味が、単調になりがちな肉料理に無限の奥行きを与えている。シソの清涼感、ミントの爽快感、そして名前も知らないハーブのほろ苦さ。食べるたびにハーブの組み合わせを変えれば、一口ごとに新しい味に出会えるのだ。
そして当然、俺はテーブルの上の刻み唐辛子と生ニンニクを大量に追加する。甘酸っぱいタレが、一気に灼熱のスープへと変貌を遂げる。汗が滝のように流れ落ち、口の中は炎上状態。しかし、不思議と箸は止まらない。辛さが肉の脂の甘さを際立たせ、食欲をさらに増進させるのだ。周りのベトナム人たちが、汗だくで麺をすする俺を奇妙なものを見るような目で見ているが、気にしてはいられない。これぞ、ハノイの熱気、ハノイのエネルギーそのものを食べているような感覚。胃袋が、この街と一体になる瞬間だ。
魚の旨味爆弾、チャーカーラヴォン
ハノイには、その料理名を冠した通りが存在するほど、特別な一皿がある。それが、チャーカーラヴォン(Chả Cá Lã Vọng)。雷魚などの淡水魚をターメリックやスパイスで下味をつけ、たっぷりのディル(ハーブの一種)とネギと共に油で炒め煮にする料理だ。これは専門店でしか食べられない、ハレの日のご馳走といった趣がある。
旧市街にある老舗のドアをくぐると、独特の香りに包まれる。ターメリックのスパイシーな香りと、ディルの甘く爽やかな香りが混じり合った、食欲をそそる匂いだ。席に着くと、テーブルの中央にカセットコンロが置かれ、油が入った小さなフライパンがセットされる。
運ばれてきたのは、黄金色に輝く魚の切り身。すでに火は通っているが、これを客自身がテーブルの上で仕上げるのがチャーカーのスタイルだ。フライパンの油が温まったら、まず魚を投入。そして、これでもかという量のディルと青ネギを放り込む。ジュワーッという音と共に、ディルの香りが一気に立ち上る。この香りを嗅ぐだけで、白飯三杯はいけそうだ。
魚とハーブが油で炒め煮にされ、クタクタになったら食べごろ。小皿に取り分け、ブン(米麺)、炒ったピーナッツ、パクチーなどを乗せ、マムトム(Mắm tôm)と呼ばれる発酵させたエビのペーストをベースにしたタレをかけていただく。
このマムトムが、なかなかの曲者。強烈な発酵臭があり、日本人には好き嫌いがはっきりと分かれるだろう。しかし、これこそがチャーカーの魂。ライムを絞り、砂糖と唐辛子を加えてよくかき混ぜると、ピンク色に泡立つ不思議なタレが完成する。
恐る恐る、すべての具材とタレを混ぜて口に運ぶ。……衝撃。まず、ターメリックとディルの風味をまとった、ふわふわの魚の身の旨味が広がる。次に、ピーナッツの香ばしさと食感がアクセントを加え、ブンのつるりとした喉越しが全体をまとめる。そして、後から追いかけてくるのが、マムトムの複雑怪奇な味わいだ。強烈な塩気と旨味、そして独特の発酵臭。最初は戸惑うかもしれないが、これが魚の脂やハーブの香りと結びつくと、他に類を見ない、中毒性の高い味わいを生み出すのだ。臭い、けど、うまい。この背徳的な感覚がたまらない。
もちろん、俺はマムトムに追い唐辛子を敢行。強烈な塩気と旨味に、暴力的な辛さが加わる。脳天を突き抜けるような刺激。だが、ディルの爽やかさが、その辛さを不思議とクールダウンさせてくれる。辛い、うまい、臭い、爽やか。味覚のジェットコースターだ。ハノイの食の奥深さを、まざまざと見せつけられた一皿だった。
路上の喧騒と静寂が交差する、ハノイ・カフェタイム
灼熱の太陽が照りつけるハノイの午後。バイクの波をかき分け、路地裏を歩き回れば、当然汗だくになる。そんな時、ハノイっ子たちが向かうのがカフェだ。ベトナムは世界有数のコーヒー生産国であり、その文化は人々の生活に深く根付いている。しかし、ハノイのカフェ文化は、我々が知るそれとは少し違う。それはもっと日常的で、もっと独創的で、もっと路上と密接なのだ。
濃厚な甘さの誘惑、エッグコーヒー(カフェ・チュン)
ハノイのカフェを語る上で、絶対に外せないのが「カフェ・チュン(Cà phê trứng)」、通称エッグコーヒーだ。その名の通り、コーヒーに卵が入っている。初めて聞くとギョッとするかもしれないが、これはハノイが生んだ偉大な発明品なのだ。
時は1940年代、フランスとの戦争の影響で牛乳が貴重品となった時代。あるホテルのバーテンダーが、牛乳の代わりに卵の黄身と砂糖、コンデンスミルクを泡立てて、カプチーノに見立ててコーヒーに乗せたのが始まりと言われている。この苦肉の策が、今やハノイを代表する名物ドリンクとなったのだから、歴史とは面白い。
俺はホアンキエム湖のほとりにある、古いカフェの狭い階段を上った。観光客にも有名だが、地元民もひっきりなしに訪れる人気店だ。窓際の席からは、緑豊かな湖と、その向こうに建つ玉山祠(ぎょくさんじ)が見える。喧騒から切り離された、穏やかな時間が流れていた。
運ばれてきたエッグコーヒーは、小さなカップに入っている。コーヒーの上に、こんもりと盛られたクリーム色の泡。見た目はデザートのようだ。スプーンですくって一口食べてみると、驚くほど滑らかで、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。まるで、とろけるカスタードクリームか、ティラミスのようだ。卵の生臭さは全くなく、ただただリッチなコクと甘みが感じられる。
次に、スプーンで底のほうからかき混ぜ、コーヒーと一緒に飲む。すると、濃厚な甘さのクリームと、ベトナムコーヒー特有の深く、苦い味わいが融合し、絶妙なビタースイートな味わいに変化する。甘い、苦い、甘い、苦い。この無限ループが、たまらなく心地よい。激辛料理で酷使した舌と胃を、優しく包み込んでくれるような、癒やしのドリンクだ。ハノイの歴史が生んだ、甘く切ない一杯。この街を訪れたなら、必ず体験してほしい味である。
喉を潤す、進化系ドリンクたち
エッグコーヒーが伝統の味なら、現代のハノイにはさらに進化したユニークなカフェドリンクが溢れている。灼熱の街歩きで火照った体をクールダウンさせるのに最適なのが、ココナッツコーヒー(カフェ・コットズア)だ。これは、濃いベトナムコーヒーと、ココナッツミルクのスムージーを混ぜ合わせたもの。コーヒーの苦味とココナッツのまろやかな甘みが驚くほどマッチし、シャリシャリとしたフローズンの食感が最高に気持ちいい。
また、ヨーグルトコーヒー(スアチュア・カフェ)も試す価値がある。無糖のヨーグルトに、コンデンスミルクとベトナムコーヒーを注いだもので、ヨーグルトの爽やかな酸味とコーヒーの苦味、コンデンスミルクの甘さが三位一体となった、飲むデザートだ。
これらのカフェドリンクを楽しむのに最適な場所は、やはり路上だ。ハノイの街角には、プラスチック製の低い椅子とテーブルが並べられた、即席のカフェスペースが無数に存在する。そこに腰を下ろし、行き交うバイクの群れを眺めながら、冷たいドリンクで喉を潤す。隣に座った見知らぬおじさんと目が合えば、軽く会釈を交わす。言葉は通じなくとも、同じ時間を共有しているという一体感がそこにはある。
高級なカフェのフカフカのソファもいいが、このアスファルトすれすれの低い椅子から見るハノイの景色こそが、真のベトナム体験ではないだろうか。一杯のコーヒーが、ただの飲み物ではなく、この街の日常に溶け込むためのパスポートになる。そんな不思議な魅力が、ハノイのカフェ文化にはあるのだ。
宵闇に浮かぶ赤い提灯、ハノイの夜はこれからが本番
日が落ち、街がネオンと提灯の光に彩られる頃、ハノイは新たな顔を見せる。日中の猛烈な暑さが和らぎ、涼しい風が吹き始めると、人々は再び路上へと繰り出してくる。仕事終わりの一杯を楽しむ人々、家族で食卓を囲む人々。ハノイの夜は、食の冒険のクライマックスにふさわしい、刺激と熱気に満ちている。
ビアホイで乾杯!地元民と交わる最高の夜
ハノイの夜を語るなら、ビアホイ(Bia Hơi)を避けては通れない。その日に醸造された、非加熱の生ビールのことだ。鮮度が命のため、その日のうちに飲み切るのが基本。そして何より驚くべきは、その価格。一杯が数千ドン、日本円にして数十円という破格の値段で楽しめるのだ。
旧市街の一角、通称「ビアホイ通り」は、その名の通りビアホイを提供する店が密集し、夜ごとお祭り騒ぎとなる。狭い路上に溢れんばかりに並べられたプラスチックの椅子は、地元民と観光客で埋め尽くされ、乾杯の声が四方八方から響き渡る。このカオスな雰囲気こそが、ビアホイの醍醐味だ。
俺もその喧騒の中に身を投じ、空いている椅子を見つけて腰を下ろす。すぐに、ジョッキになみなみと注がれた黄金色の液体が運ばれてきた。キンキンに冷えているわけではない、常温に近い温度。一口飲むと、炭酸は弱めで、日本のビールに比べるとかなりライトでさっぱりとした味わいだ。ゴクゴクと、水のように飲めてしまう。この飲みやすさが、ハノイの湿度の高い夜にはぴったりなのだ。
もちろん、ビールだけではない。ビアホイの店には、酒が進む最高のつまみが揃っている。揚げ春巻き(ネムザン)、発酵ソーセージの素揚げ(ネムチュアザン)、空芯菜のニンニク炒め、レモングラスの香りが効いたアサリの蒸し物。どれもシンプルだが、ビールとの相性は抜群だ。
俺が特に気に入ったのは、豆腐のレモングラス唐辛子揚げ。外はカリッと、中はふわふわの揚げ豆腐に、刻んだレモングラスと唐辛子がたっぷりとまぶされている。レモングラスの爽やかな香りと、唐辛子のピリリとした辛さが、淡白な豆腐の味を劇的に引き立てる。これがまた、さっぱりしたビアホイによく合うのだ。
隣のテーブルのベトナム人の若者グループが、片言の英語で話しかけてきた。「どこから来たんだ?」「ベトナム料理は好きか?」他愛もない会話を交わし、互いのジョッキを掲げて「モッ、ハイ、バー、ヨー!(1、2、3、乾杯!)」と叫ぶ。言葉の壁も国籍も、この場所では関係ない。一杯の安いビールが、人々の心を繋いでいく。ビアホイは単なるアルコールではない。ハノイの人々の生活に溶け込み、その温かさに触れるための、最高のコミュニケーションツールなのだ。
鍋を囲んで深まる絆、ラウ(ベトナム鍋)の世界
ビアホイで心地よく喉を潤した後は、本格的なディナーと行こう。ハノイの夜の主役の一つが、ラウ(Lẩu)と呼ばれるベトナム鍋だ。友人や家族と一つの鍋を囲み、わいわいと楽しむのがベトナム流。これもまた、絆を深めるための大切な食文化である。
ラウの種類は実に多彩。海鮮たっぷりのラウ・ハイサン、牛肉がメインのラウ・ボー、ヤギ肉を使った滋味深いラウ・ゼー、そして、俺の心を最も揺さぶる、辛くて酸っぱいタイ風鍋、ラウ・タイ。もちろん、俺が選ぶのはラウ・タイだ。
専門店に入りラウ・タイを注文すると、テーブルの中央にコンロと、赤いスープがなみなみと入った鍋が運ばれてくる。トムヤムクンに似たスープで、レモングラス、コブミカンの葉、唐辛子の香りが強烈に立ち上り、それだけで唾液腺が刺激される。
そして、テーブルを埋め尽くすほどの具材のプレート。エビ、イカ、白身魚、アサリなどの海鮮、薄切りの牛肉、キノコ類、豆腐、そして山のような野菜とハーブ、そしてインスタントラーメン。これを自分たちで鍋に投入し、煮えるのを待つ。
スープが煮立ち、具材に火が通ったら、いよいよ実食。小皿に取り、ハフハフと頬張る。うまい!海鮮と肉から出た旨味が溶け込んだスープは、酸味と辛味のバランスが絶妙。レモングラスの爽やかな香りが全体をまとめ、後から唐辛子の刺激的な辛さが追いかけてくる。様々な具材の食感も楽しく、食べる手が止まらない。
スパイスハンターの本領発揮!灼熱の激辛チャレンジ
だが、この店のラウ・タイは、まだ序の口だった。俺は店員に尋ねた。「この店で、一番辛いものは何だ?もっと、もっと辛くできるか?」と。店員は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと笑い、厨房から小さな器を持ってきた。中には、ドス黒い赤色をした、見るからに危険な唐辛子ペーストが。生の唐辛子を潰し、ニンニクや何か別のスパイスと混ぜ合わせたものらしい。
俺はそのペーストを、レンゲに半分ほどすくい、自分の小皿のスープに溶かした。スープの色が、一気に深紅に変わる。覚悟を決めて、一口。
……来た。来た来た来た!
最初に感じたのは、痛み。舌が、針で刺されたかのような鋭い痛みに襲われる。次の瞬間、その痛みは灼熱の炎となって口内全体に広がり、喉を焼きながら食道へと落ちていく。レモングラスの爽やかさも、海鮮の旨味も、すべてがこの暴力的な辛さの前に吹き飛んでしまった。
額から、首筋から、背中から、玉のような汗が噴き出す。呼吸が少し荒くなる。頭が、クラクラする。これは、もはや料理の味を楽しむという次元ではない。自分自身の限界との戦いだ。しかし、不思議なことに、この痛みと熱の向こう側に、奇妙な快感が芽生え始める。脳内で、何らかの物質が分泌されているのがわかる。これぞ、激辛の向こう側、カプサイシン・ハイだ。
周りのお客さんや店員が、固唾をのんで俺の様子を見守っている。その視線が、俺の闘争心にさらに火をつける。汗を拭い、水を一口飲み、そしてまた、灼熱のスープを口に運ぶ。辛い。痛い。熱い。だが、うまい。いや、うまいと感じているのかどうかすら、もうわからない。ただ、スプーンを動かすことだけが、俺に残された使命なのだ。
鍋の具材をすべて平らげ、〆のインスタントラーメンを投入。このラーメンがまた、悪魔的に辛いスープをすべて吸い込んで、最終兵器として俺の胃袋に襲いかかってくる。最後の力を振り絞ってそれをすすり上げ、ジョッキに残っていたビアホイを一気に流し込んだ。
……勝った。俺は、ハノイの夜のラスボスに、勝ったのだ。
全身は汗でびしょ濡れになり、胃の中はマグマのように熱い。しかし、心は奇妙な達成感と静けさに満ちていた。これぞ、スパイスハンターとしての旅の醍醐味。ただ観光地を巡るだけでは決して味わえない、その土地の魂の熱さに、身をもって触れることができたのだから。
旅の終わりは、胃袋との対話から始まる
ハノイの喧騒と熱気を全身で浴び、フォーの優しさに始まり、ブンチャーの熱狂に身を任せ、チャーカーの奥深さに驚き、ビアホイで人々と笑い合い、そして最後はラウ・タイとの壮絶な死闘を繰り広げた。俺の胃袋は、この数日間でハノイの食文化のすべてを体験し、吸収した。それは、喜びであり、学びであり、そして間違いなく、大きな負担でもあった。
ホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。ラウ・タイとの戦いの後遺症は、思った以上に深刻だった。胃が、まるで内側から誰かに殴られているかのように、ズキズキと痛む。灼熱のマグマが、今もなお胃壁を攻撃し続けているのがわかる。これが、スパイスハンターの宿命。栄光の裏には、常にこうした代償が伴うのだ。
しかし、俺には長年の旅で培った知恵と、最強の相棒がいる。旅の荷物から取り出すのは、いつもお世話になっている日本の胃腸薬だ。特に、俺が絶大な信頼を寄せているのが「太田胃散A錠剤」。荒れた胃の粘膜を修復・保護してくれる成分と、脂肪やタンパク質を分解する消化酵素がバランスよく配合されている。こいつは、激辛料理や脂っこいB級グルメで酷使した胃袋にとって、まさに救世主なんだ。
規定量を水で流し込む。数十分もすれば、荒れ狂っていた胃の中の嵐が、少しずつ静まっていくのがわかる。ズキズキとした痛みが和らぎ、灼熱感が引いていく。この安堵感。この胃腸薬があるからこそ、俺は次の日も、また新たな国の、新たな激辛料理に無謀な挑戦ができるのだ。まさに「守りのスパイス」と言えるだろう。
ハノイの夜は、まだ終わらない。窓の外からは、バイクの音と人々の笑い声が聞こえてくる。この街は、眠らない。そして俺の食への探求心も、眠ることはない。胃袋が落ち着いたら、またあの路地裏へ繰り出そうか。今度は、まだ見ぬ夜食を探しに。旅はまだ、始まったばかりだ。ハノイよ、ありがとう。そして、ごちそうさまでした。俺の胃腸薬に感謝。


