「微笑みの国」タイ。美味しいグルメ、荘厳な寺院、活気あふれるナイトマーケット。何度訪れても新しい魅力に出会える、不思議な引力を持つ国です。そんなタイを旅行中に、ふと気づくことはありませんか?「あれ、車が走っている方向、日本と同じだ!」と。
そう、タイは日本やイギリスと同じ、車が左側を走り、ハンドルが右側にある「左側通行・右ハンドル」の国なのです。世界的に見れば少数派であるこのルール。隣国のカンボジアやラオスは右側通行なのに、なぜタイだけが左側通行を採用しているのでしょうか。そこには、タイが歩んできた独自の近代化の歴史と、巧みな外交戦略が深く関わっていました。この記事では、タイが左側通行である理由を歴史の糸をたぐりながら解き明かし、さらに旅行者が現地で安全に過ごすための交通事情や、実際にタイで運転するための具体的な方法まで、余すところなくご紹介します。この記事を読めば、タイの街並みがいつもより少し違って、そしてもっと興味深く見えてくるはずです。さあ、タイの交通ルールを巡る知的好奇心の旅へ出かけましょう。
タイの交通ルールを理解したら、次は空港での税関ルールを確認して、スムーズな入国を目指しましょう。
世界の交通ルール:左側通行は少数派?

まず、タイの話を始める前に、世界の交通ルールについて少しだけ見てみましょう。私たちは日常的に何気なく左側を歩き、車を運転していますが、これは世界的に見れば必ずしも当たり前のことではありません。実際には「少数派」に属しているのです。
左側通行の国々
左側通行を採用している国はおよそ70カ国ほどあります。代表例としては、発祥の地とされるイギリスをはじめ、日本、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、南アフリカ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、そしてタイなどが挙げられます。地図を確認すると、旧イギリス植民地やイギリス連邦に属していた国々が多いことがわかります。これは、かつてイギリスが世界中に広大な植民地を持ち、その支配下で本国の交通ルールを導入した名残と言えるでしょう。いわば「大英帝国の遺産」と呼べるものです。
右側通行の国々
一方、右側通行を採用している国は世界の大多数を占め、160カ国以上にのぼります。アメリカ、カナダ、中国、ロシア、さらにヨーロッパ大陸のほとんどの国(イギリスやアイルランドを除く)が右側通行です。その大きな要因としては、フランス革命後にナポレオンが支配下の地域に右側通行を広めたことが挙げられます。また、自動車産業で主導的役割を果たしてきたアメリカが左ハンドル車を大量に生産し、世界に輸出したことも、右側通行が国際的な標準となる一因となりました。
こうしてみると、アジア大陸の中心にあるタイが、周辺の多くの国とは異なり左側通行を採用していることの独自性がよくわかると思います。では、いよいよ本題に入りましょう。なぜタイは、この少数派の選択をしたのでしょうか。
タイが左側通行である歴史的背景
タイが左側通行である理由について、多くの人が「日本の影響かも?」と考えがちですが、実際はそうではありません。その背景は19世紀後半の激動の時代にまでさかのぼります。当時、欧米列強が次々とアジア諸国を植民地化する中、タイは独立を守り抜いた数少ない国の一つでした。この「独立の堅持」が、交通ルールの謎を解くカギとなっています。
最も有力な説:イギリスとの巧みな関係構築
タイの左側通行の最大の理由は、「イギリスの影響を自ら受け入れたことにある」とされています。植民地化は免れたものの、当時のシャム(タイの旧称)は、西にイギリス領ビルマ(現ミャンマー)、東にフランス領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)という二大列強によって挟まれていました。この位置はまさに虎と鰐に挟まれたような緊迫したものでした。
近代化を推進した名君たち
こうした厳しい情勢を乗り越えるため、国王ラーマ4世(モンクット王)とラーマ5世(チュラロンコン大王)は国家の抜本的な近代化を進めました。彼らは欧米の先進技術や制度を積極的に導入し、国力向上に努めることで独立を守ろうとしたのです。特に重視したのがイギリスとのパートナーシップでした。イギリスから多くの顧問を招き入れ、法律、行政、教育、そしてインフラの近代化を推し進めました。
その一環として発展したのが交通インフラの整備です。1900年代初頭、タイに初めて自動車が輸入されました。その主な輸入先は当時世界最大の自動車輸出国であり、外交関係でも親密だったイギリスでした。輸入された車は自然とイギリス仕様の右ハンドル車であり、これを安全に運転するには道路の左側を走行するのが合理的でした。そのため、タイの道路には自然なかたちで左側通行が根付いていったのです。1913年にはタイ初の自動車関連法が成立し、左側通行が正式に規定されたと伝えられています。
つまり、タイは植民地支配のもとで強制されたわけではなく、近代化の過程で最も合理的かつ実効的な選択として、イギリス式交通システムを「自発的に導入」しました。これはタイの巧みな外交戦略と現実主義を示す一例でもあります。
隣国の影響と地域的な調和
もう一つ注目すべきは、周辺国の交通事情です。タイの南にあるマレーシアは当時イギリスの植民地で、当然左側通行でした。また、西隣のミャンマーも同様の車両通行ルールを採用していました。陸続きの国々と交通ルールを統一することは物流や人の移動を円滑にするうえで極めて重要です。特にマレーシアと経済的な結びつきが強いタイ南部では、交通規則の統一が求められたと考えられます。このように、地域全体の調和を考慮した結果、左側通行の採用は極めて理にかなったものでした。
日本の関与は?
では、よく言われる「日本の影響説」はどこから来たのでしょうか。これは第二次世界大戦中に日本軍がタイに進駐した歴史的事実が元になった憶測と考えられます。確かに戦時中、日本とタイは同盟関係にあり、軍事協力も行われました。しかし、左側通行が法制化されたのはそれよりもずっと前の20世紀初頭のことです。したがって、タイの左側通行が日本の影響によるものというのは時系列から見て成立しにくく、偶然の一致として捉えるのが妥当でしょう。
タイの交通事情:旅行者が知っておくべきこと

タイが左側通行となっている歴史的背景を理解いただいたところで、ここからはより実践的な内容に進みましょう。日本と同じ左側通行だからといって油断は禁物です。タイには現地のドライバーや歩行者の間で共有されている独特の「暗黙のルール」や文化があります。安全かつ快適にタイ旅行を楽しむために、これらの交通事情をしっかりと把握しておきましょう。
タイでの運転にあたっての注意点【上級者向け】
「せっかくなので国際免許を取得し、タイの美しい海岸線をドライブしたい!」というアクティブな方もいるかもしれません。タイでの運転は日本とは異なる独特のスリルと開放感を味わえますが、それだけに充分な準備と覚悟が必要です。
準備と持ち物:国際運転免許証は必ず取得を
タイで自動車やバイクを運転するには、日本の運転免許証だけでは不十分です。ジュネーブ条約に基づく「国際運転免許証」を必ず取得してください。申請は日本の各都道府県の運転免許センターや一部の警察署で可能です。申請時には日本の運転免許証、パスポート、写真、申請手数料が必要となります。有効期間は発行日から1年ですので、渡航日程に合わせて申請してください。詳しい情報はJAF(日本自動車連盟)公式サイトでご確認いただけます。
持ち物リスト
- パスポート(原本)
- 日本の運転免許証(原本)
- 国際運転免許証(原本)
- クレジットカード
レンタカーを借りる際には、これら3点の免許証を提示することが多いため、忘れずに携行しましょう。
現地の交通ルールで知っておきたいこと
- 信号の扱い: 基本的な意味は日本と同じですが、赤信号時の左折が許可されている交差点があります。その場合、「เลี้ยวซ้ายผ่านตลอด(リヤオ・サーイ・パーン・タロート)」という標識が設置されています。ただし、歩行者や他の車両の動きには十分注意を払いましょう。
- ラウンドアバウト(交通円環): タイの地方都市や大きな交差点ではラウンドアバウトが多く見られます。原則として「円環内を走行する車が優先」です。進入時は右側から来る車の有無を必ず確認し、安全に合流してください。
- バイクの多さ: 特にバンコクの交通では多くのバイクが車間を縫うように走行しています。車線変更や右左折時にはミラーだけでなく、必ず目視で死角にバイクがいないか確認することが重要です。ウインカーを出しても道を譲ってもらえるとは限りません。
- 飲酒運転の厳罰: タイは飲酒運転に対する罰則が非常に厳格で、観光客も例外ではありません。違反した場合、高額な罰金や禁固刑になることもあります。楽しい旅行を台無しにしないためにも、「飲酒後の運転は禁止」を徹底しましょう。
レンタカー・レンタルバイクの利用とトラブル回避法
- 予約: 空港や市内に多くのレンタカー会社がありますが、大手の場合、オンラインでの事前予約が便利でスムーズです。
- 契約時の確認: 契約書に署名する前に保険内容を必ず確認してください。対人・対物保険の補償範囲や免責額(自己負担額)について把握しておくことが大切です。また車両を引き取る際、スタッフと一緒に車体の傷やへこみを隅々までチェックし、写真や動画で記録しておくと返却トラブルを避けられます。
- パスポートは預けない: 一部の悪質なレンタルバイク店では保証金の代わりにパスポート原本を預かろうとする場合があります。しかし、パスポートは海外で唯一の身分証明書なので、原本を預けることは絶対に避けてください。コピーを渡すか、パスポートを預けなくてよい信頼できる店舗を選びましょう。
運転しない旅行者向けの交通ガイド【全ての旅行者に】
大半の旅行者は現地で運転せず、公共交通機関やタクシー等を利用するでしょう。しかし歩行者も決して油断はできません。ここでは、歩いて道路を渡る際の注意点や、各種交通機関の賢い利用方法を解説します。
バンコクで道路を渡る際のポイント
バンコクの名物のひとつが、交通量の多い道路を渡るスリルです。信号のある横断歩道は少なく、信号無視の車やバイクが突っ込んでくることも珍しくありません。まず知っておくべきは、タイには「歩行者優先」という意識があまりないことです。
- 左右の確認を徹底する: 左側通行のため、まず右、次に左を確認するのが基本です。ただし、バイクが逆走してくることもあるので、左右双方を何度も繰り返し確認する習慣をつけましょう。
- 地元の人について渡る: 最も安全なのは、渡ろうとしている現地の人を見つけ、そのすぐ後ろについて渡ることです。彼らは車やバイクの流れに合わせて安全なタイミングを把握しています。
- 意思表示をする: 渡りたい意思を示すため、手を軽く挙げてドライバーに合図するのも有効ですが、車が必ず止まるとは限らないので過信は禁物です。
- 歩道橋を積極利用: 大通りなどには歩道橋(スカイウォーク)が設けられていることが多いので、安全のために遠回りでも利用しましょう。
公共交通機関の上手な利用法
バンコクの公共交通機関は発達しており、活用すれば主要観光地へ快適にアクセスできます。
- BTS(スカイトレイン)とMRT(地下鉄): バンコク都市圏の主要エリアを網羅する高架鉄道と地下鉄です。渋滞知らずで時間も正確、車内は清潔かつエアコン完備。観光客に最も利用しやすい交通手段です。券売機でトークンを購入、または日本のSuicaのようなICカード「ラビット・カード(Rabbit Card)」を使うと乗降がよりスムーズです。
- タクシーとトゥクトゥク: カラフルなタクシーは初乗り料金が安く便利ですが、乗車拒否やメーター非使用のぼったくりが存在します。乗ったら必ず「メーター、プリーズ」と伝え、正しくメーターが作動しているか確認しましょう。三輪車のトゥクトゥクは開放感が楽しい反面、料金は完全交渉制です。乗車前に必ず目的地と料金を確定しましょう。相場を知らないと割高請求されることもあります。
- 配車アプリ「Grab」は必須: こうしたトラブルを避け、快適に移動するために配車アプリ「Grab」が非常に便利です。アプリで目的地指定し料金も事前に確定できるため、言語の壁や値段交渉の煩わしさを軽減できます。クレジットカード登録でキャッシュレス決済も可能。タイ旅行前に必ずダウンロードし、設定を整えておくことを強くおすすめします。
万が一の交通トラブル時の対処法
どんなに注意していても、不測のトラブルに巻き込まれるリスクはゼロではありません。万が一に備え、冷静に対応できるよう対処法を心得ておくことが重要です。
事故に遭遇した場合
- 警察と救急車に連絡: まずは自分自身の安全を確保し、負傷者がいれば救急車(電話番号:1669)を呼びます。その後、必ず警察(電話番号:191)にも通報してください。外国人旅行者向けのツーリスト・ポリス(電話番号:1155)は英語が通じやすいので、念のため番号を控えておくと安心です。
- 現場を動かさない: 警察が到着するまで事故現場の状況はできる限りそのままにしてください。相手と口論したり、その場で示談を試みたりするのは避けましょう。
- 情報の記録: 相手の車両番号、運転者の名前や連絡先、可能なら免許証や保険証の写真も撮らせてもらいましょう。また、目撃者がいれば連絡先も控えておくと後の対応に役立ちます。
- 保険会社と大使館への連絡: レンタカーを利用している場合は保険会社に連絡し、場合によっては在タイ日本国大使館へも連絡して指示を仰ぎましょう。海外旅行保険に加入している場合は、保険会社サポートにも連絡してください。
交通違反で警察に呼び止められた場合
慣れない土地では思わぬ交通違反をしてしまうこともあります。警察に止められたら落ち着いて丁寧に対応しましょう。指示に従い免許証やパスポートの提示に応じてください。罰金をその場で支払うよう求められることもありますが、正規の手続き(警察署での支払いなど)を確認することが大切です。もし異常に高額な罰金を要求されたり、不審に思った場合はすぐに支払わず、ツーリスト・ポリスや大使館に相談するのも検討してください。
なぜ世界の交通ルールは統一されないのか?
タイの交通事情を詳しく見てきましたが、ここで一つの素朴な疑問が浮かびます。現代のように人や物が国境を越えて自由に行き来する時代に、なぜ世界中の交通ルールは右側通行か左側通行に統一されないのでしょうか。
慣習の影響と莫大なコスト
その主な理由は、一度根付いたルールを変更するには膨大な社会的・経済的コストが伴うからです。想像してみてください。国全体の交通ルールを左側通行から右側通行、あるいはその逆に変える場合、まずは全国の道路標識や信号機の全てを交換・設置し直す必要があります。さらに道路上の白線や矢印も一から書き換える必要があり、その費用は計り知れません。
加えて厄介なのは人々の「慣習」です。何十年にもわたり染みついた運転の感覚や歩行時の左右確認の習慣を短期間で変えることは極めて難しいのです。切り替え直後は、ドライバーや歩行者の混乱によって事故が多発することは避けられません。
スウェーデンの大改革「ダゲン・H」
実例として、この大規模な改変に挑んだ国があります。スウェーデンです。隣接するすべての国が右側通行である一方で、スウェーデンは歴史的に左側通行を維持していました。しかし、物流の非効率性や左ハンドル車の普及に伴う事故の多発が問題となり、1967年9月3日、国家を挙げて一斉に右側通行へ切り替えました。この日は「Högertrafikomläggningen(右側交通への切り替え)」の頭文字から「ダゲン・H(Hの日)」と呼ばれています。この改革には長期間の準備と徹底した国民への啓蒙活動、そして多額の予算が投入されました。このような国家的な大事業を成功させるには、強固な政治的意志と国民の広範な合意が必要であり、多くの国にとっては現状維持がもっとも現実的な選択肢となっているのです。
タイの道を歩く、その歴史の深さを知る旅へ

なぜタイの車は、私たちの国と同様に左側を走るのでしょうか。その理由は単なる交通規則の選択にとどまらず、19世紀の列強の圧力に抗いながら、巧みに独立を守り抜いたタイ王国の知恵と歴史に深く根ざしています。イギリスの支援を受けて近代化を進めつつも、決してその支配下には屈しなかった誇り。その痕跡は今でもバンコクの喧騒の中を走る車やトゥクトゥクの流れに息づいています。
次にタイを訪れる際には、ただ道を渡る一瞬にも、この歴史の物語を心に留めてみてください。右から迫るバイクに気をつけ、左から来るタクシーの間を縫って道路を渡るその日常の行動が、実はタイという国の成り立ちと深く結びついていることを知れば、旅の経験は一層豊かなものになるでしょう。交通ルールという視点から、その国の歴史を垣間見る。そんな知的な旅の楽しみ方を、ぜひタイで味わってみてください。安全に気をつけて、素晴らしいタイ旅行をお楽しみください。

