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    神々の息吹と悠久の刻が流れる島、沖縄・久高島へ。夫婦で訪れる心の故郷

    長年、夫と二人でヨーロッパの古都を巡り、石畳に刻まれた歴史の重みに心を震わせる旅を続けてきました。ローマのフォロ・ロマーノ、パリのノートルダム大聖堂、フィレンツェのドゥオモ。壮麗な建造物が語る物語に魅せられ、私たちの旅のコンパスはいつも西を向いていました。子育てが一段落し、時間に縛られない自由な旅ができるようになった今、私たちの興味は、これまでとはまったく違う場所へと導かれました。それが、日本の南の果てに浮かぶ、沖縄の小さな島「久高島」です。

    「神の島」と呼ばれるこの場所には、ヨーロッパのそれとは異なる、目には見えないけれど確かに存在する、深く、そして厳かな歴史が息づいていると聞きます。琉球創世の神アマミキヨが天から舞い降り、ここから国づくりを始めたという神話の舞台。派手な観光施設も、高級リゾートもありません。ただ、手つかずの自然と、古からの祈りが、静かに島全体を包み込んでいるのだとか。

    これまで私たちが愛してきた「積み重ねられた石の文化」とは対極にあるような、「自然と一体となった祈りの文化」。その違いに強く惹かれ、次の旅先は久高島にしようと、夫と二人で決めました。便利さや快適さだけではない、心の深い部分に触れるような、ゆとりある大人の旅。私たちが久高島で何を感じ、何を見つけたのか。この旅の記録が、同じように日々の喧騒から離れ、自分自身と向き合う時間を求める方々の、ささやかな道標となれば幸いです。

    目次

    神話が息づく島、久高島とは

    久高島を語る上で欠かせないのが、琉球の創世神話です。沖縄の人々の精神的支柱ともいえるこの物語の中心に、久高島は位置しています。遥か昔、天の神が女神アマミキヨをこの地に遣わし、国づくりと五穀豊穣の種を授けたとされています。アマミキヨが最初に降り立った聖地が、久高島にあると信じられているのです。そのため、島全体が「聖域」とされ、沖縄本島からも多くの人々が祈りを捧げに訪れます。

    この島が他の観光地と一線を画すのは、島の人々が今もなお、神々と共に生きているという点にあります。彼らにとって、神話は遠い昔のおとぎ話ではなく、日々の暮らしに根差した現実そのもの。島の生活は、自然への畏敬と感謝、そして祖先から受け継がれてきた祭祀を中心に営まれています。

    かつて琉球王国時代には、国家的な祭祀がこの島で行われていました。その代表格が「イザイホー」です。これは、久高島で生まれ育った30歳から41歳までの女性が、神に仕える女性「ノロ」になるための就任儀礼であり、12年に一度、午年に行われていました。島中の女性たちが神女(カミンチュ)となり、数日間にわたって神聖な儀式を執り行う、島最大の祭祀でした。しかし、後継者不足などから1978年を最後に途絶えており、現在はその復活が願われています。イザイホーが途絶えた今も、島の年間行事は数多く、そのすべてが自然のサイクルと神々への祈りに結びついています。

    私たちが訪れたときも、島の方の佇まいや言葉の端々から、この土地に対する深い敬意を感じずにはいられませんでした。観光客である私たちは、あくまで「お邪魔させていただく」という謙虚な気持ちを持つことが何よりも大切だと、肌で感じたのです。ヨーロッパの教会で静かに祈る人々の姿と、久高島の御嶽(うたき)に手を合わせる人の姿は、形は違えど、目に見えない大いなる存在への畏敬という点で、どこか通じるものがあるように思えました。

    久高島は、周囲約8kmの細長い小さな島です。高い山はなく、平坦な地形が続いています。島の道は、かつてはサンゴのかけらでできていたそうで、今もその名残を感じさせる白い道が印象的です。集落は島の南西部に集中しており、それ以外の場所は、鬱蒼とした緑の森や、アダンの木々が茂る海岸線など、手つかずの自然が広がっています。この自然そのものが、神々が宿る場所「御嶽」なのです。島には大小さまざまな御嶽があり、その多くは観光客の立ち入りが厳しく制限されています。私たちが訪れることができるのは、そのごく一部。それでも、島の神聖な空気は、十分に感じ取ることができるでしょう。

    心の準備と、島への扉を開く旅路

    久高島への旅は、那覇空港に降り立った瞬間から始まります。しかし、そこから直接島へ渡ることはできません。まずは、沖縄本島南城市にある「安座真(あざま)港」を目指す必要があります。

    那覇空港から安座真港へ

    私たちは、ゆとりのある旅を信条としているため、空港からはタクシーを利用しました。所要時間は約50分、料金は6,000円前後が目安です。運転手さんに「久高島に渡るんです」と告げると、島の神聖さや、ご自身の思い出などを話してくださり、これから始まる旅への期待がより一層高まりました。

    もう少し費用を抑えたい場合は、レンタカーやバスという選択肢もあります。レンタカーの場合、安座真港に有料駐車場がありますので、そこに車を置いて島へ渡ることができます。本島での滞在も楽しむ予定の方には便利でしょう。 バスを利用する場合は、那覇バスターミナルから東陽バスの38番・志喜屋線に乗車し、「安座真サンサンビーチ入口」で下車します。そこから港までは徒歩で5分ほど。時間はかかりますが、車窓から沖縄の日常風景を眺めるのもまた、旅の醍醐味かもしれません。ただし、バスの本数は限られていますので、事前に時刻表をしっかりと確認しておくことが肝心です。

    安座真港から久高島へ – 海を渡る時間

    安座真港の待合所で、私たちは久高島へ渡る船のチケットを購入します。船は「高速船」と「フェリー」の2種類があり、それぞれ所要時間と運航スケジュールが異なります。

    • 高速船: 所要時間は約15分。風を切って海面を滑るように進むため、あっという間に島影が見えてきます。船体が小さいため、少し揺れを感じやすいかもしれません。
    • フェリー: 所要時間は約25分。船体が大きく安定しており、船酔いが心配な方にはこちらがおすすめです。車両も積載できるため、島の生活物資を運ぶ重要な役割も担っています。私たちは、のんびりと海の景色を楽しみたかったので、往路はフェリーを選びました。

    運航は1日に6往復程度。季節によって若干の変更があるため、必ず「久高海運」の公式ウェブサイトで最新の時刻表を確認してください。特に、最終便の時間は早めなので、日帰りを計画している場合は注意が必要です。

    船に乗り込むと、潮風が心地よく頬を撫でます。エメラルドグリーンから次第に深い藍色へと変わっていく海を眺めていると、日常の些細な悩みが波間に溶けていくような、不思議な感覚に包まれました。遠ざかっていく本島の景色と、少しずつ近づいてくる久高島のシルエット。この船に乗っている時間こそが、俗世から聖域へと心を切り替えるための、大切な儀式のように感じられました。船酔いが心配な方は、酔い止めの薬を事前に服用しておくこと、そして船内では遠くの景色を眺めるようにすると良いでしょう。

    レンタサイクルで巡る、島のゆったりとした時間

    久高島の徳仁(とくじん)港に降り立つと、そこにはのどかな島の日常が広がっていました。港のすぐそばには、レンタサイクルのお店が数軒並んでいます。この島を巡る最良のパートナーは、間違いなく自転車でしょう。

    なぜ自転車が最適なのか

    久高島は周囲約8kmと小さく、起伏もほとんどありません。そのため、体力に自信のないシニア世代でも、無理なく自分のペースで島を一周することができます。車がほとんど走っていないため、安全で、何より島の空気を肌で感じることができるのが魅力です。風の音、鳥の声、草木の匂い。五感をフルに使って島と対話するような感覚は、自転車ならではの体験です。

    私たちは港近くの「さばに」というお店で自転車を借りました。普通自転車のほか、電動アシスト付き自転車も用意されています。坂道はほとんどありませんが、夏の暑い日や、長距離を走る自信がない場合は、電動アシスト付きが心強い味方になってくれるでしょう。お店の方が、島の地図をくれながら、見どころや立ち入り禁止の場所、注意点などを丁寧に説明してくれます。この最初のコミュニケーションが、島への敬意を育む第一歩となりました。

    心の赴くままに巡る、私たちの散策路

    私たちは、特に厳密な計画は立てず、心の赴くままにペダルを漕ぎ始めました。まずは集落を抜け、島の北端を目指すことにします。

    集落を抜けると、道は一本道になり、両側にはサトウキビ畑が広がります。風が吹くたびに「ざわわ」と音を立てて揺れるサトウキビの葉は、まるで島が私たちに何かを語りかけているかのよう。時折、道を横切る蝶や、木陰で休む猫の姿に、思わず自転車を停めて微笑んでしまいます。

    しばらく進むと、道は鬱蒼とした緑のトンネルへと入っていきます。ガジュマルやアダンといった亜熱帯の植物が覆い茂り、昼間でも少しひんやりとした空気が漂います。この森こそが、島全体が御嶽であることの証。木々の間から差し込む木漏れ日が、まるでスポットライトのように地面を照らし、神秘的な雰囲気を醸し出していました。

    途中、いくつかの拝所(うがんじゅ)や御嶽を示す石碑が目に入ります。私たちはその都度自転車を停め、静かに手を合わせました。決して中には入らず、道端から祈りを捧げる。それが、この島を訪れる者の最低限のマナーです。

    島の道を走っていると、すれ違う観光客や島民の方と、自然に挨拶を交わすようになります。「こんにちは」。たった一言の挨拶が、こんなにも温かく感じられるのはなぜでしょう。ここでは誰もが、島の大きな懐に抱かれた、穏やかな旅人なのです。

    心静かに訪れたい、島の聖地

    久高島には、琉球の歴史と神話に深く関わる、数多くの聖地が存在します。その多くは、島民にとっても特別な祈りの場であり、部外者の立ち入りは固く禁じられています。私たちは、観光客として訪れることを許された場所へ、最大限の敬意を払いながら足を運びました。

    カベール岬(ハビャーン) – 琉球創世の始まりの地

    島の最北端に位置するカベール岬は、久高島を訪れたなら必ず足を運びたい場所です。ここは、女神アマミキヨが降り立ったとされる、まさに琉球創世の聖地。自転車を停め、緑の小道を抜けると、目の前に息をのむような絶景が広がりました。断崖絶壁の下には、どこまでも透明なエメラルドグリーンの海が広がり、水平線の彼方には沖縄本島が霞んで見えます。

    「すごい…」夫がぽつりと呟きました。私も言葉を失い、ただただその風景に見入っていました。ここには、人工的なものは何一つありません。ただ、荒々しい岩と、打ち寄せる波の音、そして空と海があるだけ。しかし、その何もない風景の中にこそ、万物の始まりを感じさせるような、圧倒的な生命力と神聖さが満ち溢れていました。私たちは、岬の先端に置かれた石にそっと手を合わせ、この地に立てたことへの感謝を捧げました。何時間でもいられる、と感じるほど、時間という概念が溶けていくような場所でした。

    フボー御嶽 – 島で最も神聖な場所

    カベール岬から集落へ戻る途中、私たちは久高島で最も神聖とされる「フボー御嶽」の前に立ちました。ここは琉球王朝時代から最高の聖域とされ、男子禁制、そして現在では何人たりとも立ち入りが許されていない場所です。鬱蒼とした木々に覆われた入口には、立ち入り禁止を告げる看板が厳かに立てられています。

    中がどうなっているのか、想像することしかできません。しかし、その入口に立つだけで、背筋が伸びるような、厳粛な空気が肌を刺すように感じられます。ここは、覗き見するような場所ではない。ただ、その存在に敬意を払い、遠くから静かに祈りを捧げるべき場所なのだと、直感的に理解しました。私たちは、入口の少し手前で立ち止まり、深く一礼をしてその場を後にしました。この「見えないものを敬う」という行為こそが、久高島の旅の核心なのかもしれません。

    イシキ浜 – 五穀の種が入った壺が流れ着いた浜

    島の東側に広がるイシキ浜もまた、重要な聖地の一つです。ここは、ニライカナイ(海の彼方にある理想郷)から、五穀の種が入った白い壺が流れ着いたとされる場所。つまり、沖縄に農耕をもたらした、始まりの浜なのです。

    白い砂浜と、サンゴ礁が広がる穏やかな海。しかし、ここは遊泳が禁止されています。あくまで祈りの場であり、神聖な浜だからです。浜辺を歩くと、足元にはたくさんのサンゴや美しい貝殻が転がっています。しかし、島のものは、石一つ、貝殻一つたりとも持ち帰ってはならない。それが、この島の鉄則です。私たちは、その美しさを写真に収めるだけにとどめ、波の音に耳を澄ませながら、しばし浜辺を散策しました。豊穣の始まりの地で、日々の食事をいただけるありがたさに、改めて思いを馳せる時間となりました。

    大里家(うぷらとぅんち) – 神事の中心となる家

    集落の中には、島の祭祀を司る「外間(ほかま)殿内(どぅんち)」と「久高殿内(くだかどぅんち)」という二つの家系があります。そのうちの一つ、外間殿内の屋敷跡が「大里家」として保存されています。ここは、かつてイザイホーなどの神事の中心となった場所。赤瓦の美しい古民家は、静かな佇まいで、訪れる人を迎えてくれます。中に入ることはできませんが、その周りを歩くだけでも、島の歴史の重みを感じることができるでしょう。

    これらの聖地を巡る旅は、スタンプラリーのように次々と場所をこなしていくものではありません。一つの場所にゆっくりと時間をかけ、その場の空気を感じ、歴史に思いを馳せる。そんな、心で旅する時間が、久高島では何よりも大切なのです。

    島の命をいただく、滋味深い食文化

    旅の楽しみの一つは、その土地ならではの食文化に触れることです。久高島には、都会のレストランのような洗練された料理はありません。しかし、そこには島の自然の恵みと、人々の知恵が詰まった、素朴で滋味深い味わいがあります。

    神の使い「イラブー」 – 勇気を出して味わう伝統の味

    久高島を語る上で欠かすことのできない食材が「イラブー」、すなわちエラブウミヘビです。古くから神の使いとされ、琉球王府への献上品でもあったイラブーは、非常に栄養価の高い高級食材として珍重されてきました。燻製にして乾燥させたイラブーを、じっくりと時間をかけて煮込んだ汁物「イラブー汁」は、島の伝統的な薬膳料理です。

    正直に言うと、ウミヘビと聞いて、最初は少し抵抗がありました。しかし、せっかく神の島に来たのだから、その神聖な恵みをいただいてみたい。夫と相談し、勇気を出して挑戦することにしました。

    私たちが訪れたのは、港の近くにある食事処「食事処とくじん」です。ここで提供されるイラブー汁は、予約が必要な場合もあるため、事前に電話で確認しておくことをお勧めします。運ばれてきたお椀の中には、黒く艶やかなイラブーの身と、昆布、そして豚肉が入っていました。恐る恐る汁を一口。すると、想像していたような生臭さは全くなく、カツオ出汁にも似た、非常に深く、そして上品な旨味が口の中に広がりました。じっくりと煮込まれたイラブーの身は、鶏肉のささみのような食感で、噛むほどに滋味が滲み出てきます。

    「これは、美味しい…」思わず夫と顔を見合わせました。これは単なる珍味ではありません。島の自然と、長い時間をかけて育まれた食文化の結晶です。体を芯から温め、活力を与えてくれるような、まさに「命をいただく」という言葉がふさわしい一品でした。イラブー汁をいただいた後、なんだか体が軽くなったように感じたのは、気のせいではなかったかもしれません。

    島の恵みが詰まった、心温まる食事

    イラブーは少しハードルが高い、という方でもご安心ください。島には、もっと気軽に楽しめる食事処もあります。私たちが昼食で利用した「お食事処 けい」では、沖縄そばやチャンプルーといった定番の沖縄料理をいただくことができます。

    私が注文したのは、近海で獲れたという魚のフライ定食。新鮮な白身魚は、衣がサクサクで、身はふっくらと柔らかく、格別の美味しさでした。添えられたモズクや島野菜の和え物も、素朴ながら素材の味がしっかりと感じられます。夫が頼んだ沖縄そばも、あっさりとした出汁が体に優しく染み渡る、心温まる味わいでした。

    お店の方との何気ない会話も、旅の思い出を彩ります。「どこから来たの?」「ゆっくりしていってね」。その温かい言葉に、まるで親戚の家に来たかのような、くつろいだ気持ちになりました。

    島には商店が一つあり、飲み物や軽食、お菓子などを購入することができます。しかし、コンビニエンスストアやスーパーマーケットはありません。レストランも数えるほどしかなく、夜は閉まるのも早い。この「ない」ことの豊かさ、不便さの中にこそ、本来の人間の暮らしのリズムがあるのかもしれない、とそんなことを考えさせられました。食事一つをとっても、久高島は私たちに多くのことを教えてくれるのです。

    島時間に身を委ねる、一夜の宿

    久高島の魅力を真に味わうなら、日帰りではなく、ぜひ一泊されることを強くお勧めします。夕暮れの空の色、満天の星、そして朝の静寂。宿泊しなければ見ることのできない島の顔は、私たちの旅をより一層深いものにしてくれました。

    民宿という選択

    島にホテルや旅館はありません。宿泊施設は、すべて「民宿」です。私たちは、港からほど近い「民宿 小やどSAWA」にお世話になることにしました。現代的な設備が整った清潔な宿で、シニア世代でも安心して滞在できます。女将さんの温かい人柄に、到着してすぐに心が和みました。

    民宿に泊まる魅力は、何といっても島の人々との交流です。夕食後、宿のゆんたく(おしゃべり)スペースで、女将さんや他の宿泊客の方と、自然に会話が始まります。島の歴史や文化、暮らしについて、本やインターネットでは知ることのできない、生きた話を伺うことができました。特に印象的だったのは、女将さんが語ってくれたイザイホーの思い出です。島中の人々が一体となり、神に祈りを捧げた日々の記憶は、彼女の言葉を通して、私たちの心に鮮やかに焼き付きました。

    ヨーロッパの歴史あるホテルに泊まるのも素晴らしい体験ですが、こうした人と人との温かい触れ合いは、民宿ならではの宝物です。まるで、島に親戚ができたかのような、そんな温かい気持ちで眠りにつくことができました。

    静寂と星空に包まれる夜

    日が沈むと、島は深い静寂に包まれます。街灯も少なく、集落を少し離れると、辺りは真の闇に支配されます。都会の喧騒に慣れた耳には、その静けさがかえって新鮮に響きました。聞こえるのは、風の音と、遠くに聞こえる波の音だけ。

    そして、空を見上げると、そこには息をのむような光景が広がっていました。天の川が、くっきりと夜空を横切り、数えきれないほどの星々が、まるで宝石をちりばめたかのように煌めいています。こんなにたくさんの星を見たのは、いつ以来だろうか。夫と二人、言葉もなく、ただただ空を眺めていました。北斗七星、カシオペア座、そして南の空には南十字星も見えるかもしれません。悠久の時をかけて地球に届く星の光を浴びながら、自分という存在の小ささと、宇宙の壮大さに思いを馳せる。それは、魂が浄化されるような、神聖な時間でした。

    新しい一日の始まりを告げる朝

    翌朝、私たちは鳥の声で目を覚ましました。窓を開けると、ひんやりと澄んだ空気が流れ込んできます。朝の散歩に出かけると、朝日を浴びて輝く海、静かな集落の路地、そして畑仕事の準備を始める島民の方々の姿がありました。

    「おはようございます」。すれ違う人々と交わす挨拶が、一日の始まりを心地よく彩ります。この穏やかで、満ち足りた時間。時間に追われる日常から解放され、ただ「今、ここにいる」ことを感じる。久高島での宿泊は、私たちにそんな贅沢な時間を与えてくれました。日帰りの慌ただしい旅では、決して味わうことのできない、島の真の姿に触れることができたのです。

    旅の終わりは、新たな始まり。安全と敬意を胸に

    どんな旅にも、計画と準備は欠かせません。特に、自然が相手の旅、そして神聖な場所を訪れる旅では、より一層の配慮が求められます。ここでは、私たちが実際に旅をして感じた、シニア世代が安心して久高島を楽しむためのヒントと、心に留めておくべき大切なことをお伝えします。

    旅の持ち物と服装 – 備えあれば憂いなし

    久高島の旅は、自然の中を歩き回ることが基本です。快適に過ごすために、以下のものを準備していくと良いでしょう。

    • 歩きやすい靴: 島内は自転車で移動しますが、聖地を巡る際は砂利道や草むらを歩くこともあります。履き慣れたスニーカーが最適です。
    • 日差し対策: 沖縄の日差しは、想像以上に強力です。特に、さえぎるものがない海岸線や畑道では、帽子、サングラス、日焼け止めは必需品です。肌の露出を抑える、長袖の羽織りものがあると、日よけと冷房対策の両方に役立ちます。
    • 虫除け: 自然豊かな場所なので、蚊などの虫はいます。特に森の中を散策する際は、虫除けスプレーがあると安心です。
    • 雨具: 沖縄の天気は変わりやすいものです。急な雨に備え、折りたたみ傘や軽量のレインウェアをバッグに入れておくと良いでしょう。
    • 飲み物: 島には自動販売機や商店はありますが、数は限られています。特に夏場は熱中症対策として、水分補給をこまめに行うため、水筒やペットボトル飲料を持参することをお勧めします。
    • 常備薬: 普段服用している薬はもちろん、胃腸薬や鎮痛剤、絆創膏など、基本的な救急セットがあると万一の際に心強いです。

    最も大切なこと – 島でのマナーとルール

    久高島は、島全体が信仰の対象です。私たちは訪問者として、島のルールを遵守し、島民の暮らしと祈りを尊重する姿勢が何よりも求められます。

    • 御嶽(うたき)には絶対に入らない: フボー御嶽をはじめ、島内のほとんどの御嶽は立ち入り禁止です。看板がなくても、地元の方が大切にしている森や広場には、むやみに足を踏み入れないようにしましょう。
    • 島のものを持ち出さない: 浜辺のサンゴや貝殻、植物、石ころ一つであっても、島から持ち出してはいけません。島のものはすべて神様からの借り物である、という考えが根付いています。美しい思い出は、写真と心の中だけにとどめましょう。
    • 肌の過度な露出を控える: ここはリゾート地ではありません。特に聖地を訪れる際は、水着や極端に肌を露出した服装は避け、敬意を示す服装を心がけましょう。
    • 大声を出さない、騒がない: 島には静かで穏やかな時間が流れています。その空気を壊さないよう、常に静かな行動を心がけてください。
    • 挨拶を交わす: すれ違う島民の方々には、「こんにちは」と挨拶をしましょう。温かいコミュニケーションが、旅をより豊かなものにしてくれます。

    これらのルールは、私たちを縛るためのものではありません。島の神聖さを守り、島民の方々と良好な関係を築くための、思いやりの心そのものなのです。

    医療と治安について – シニア世代の安心のために

    旅先での健康や安全は、特に気になる点だと思います。

    • 医療体制: 島には「久高島診療所」が一つあります。しかし、常駐の医師がいるわけではなく、設備も限られています。本格的な治療が必要になった場合は、船で本島へ渡り、病院へ行く必要があります。万一に備え、健康保険証は必ず持参し、持病のある方は、かかりつけ医の連絡先や、お薬手帳を携帯しておくと安心です。夜間や緊急時には、民宿の方や久高海運に相談することになります。
    • 治安: 治安に関しては、非常に良好です。犯罪の心配はほとんどないと言って良いでしょう。人々は穏やかで親切です。ただし、夜は街灯が少なく、集落を離れると真っ暗になります。夜間の外出は、懐中電灯を持参し、足元に十分注意してください。

    この島では、都会にあるような「万全の備え」はありません。だからこそ、自分自身の体調管理をしっかり行い、無理のないスケジュールで行動することが大切です。それが、結果的に最も安全な旅につながるのです。

    神話の刻を旅して、夫婦で見つけた宝物

    旅を終え、再び安座真港へと向かう船の上で、私は久高島のシルエットが遠ざかっていくのを、名残惜しく眺めていました。わずか二日間の滞在でしたが、そこで過ごした時間は、これまで私たちが経験してきたどの旅とも違う、深く、そして静かな感動を心に残してくれました。

    ヨーロッパの壮麗な大聖堂や古城は、人間の叡智と技術、そして権力の象Cを見せつけてくれます。その圧倒的なスケールと、石に刻まれた歴史の物語に、私たちはいつも心を奪われてきました。しかし、久高島が教えてくれたのは、まったく異なる価値観でした。そこには、人間が作り上げた巨大な建造物はありません。あるのは、手つかずの自然と、目には見えない神々への畏敬の念、そして、それらと共に生きてきた人々の、静かで謙虚な祈りの歴史です。

    フボー御嶽の前に立った時、私たちはその中を見ることができませんでした。しかし、見えないからこそ、その奥にある神聖さに思いを馳せ、想像力を働かせ、敬意を払うことができました。カベール岬の絶景も、イシキ浜の静けさも、人間が何かを「加えた」のではなく、ありのままの自然を「守り続けてきた」からこそ、私たちの心を打つのです。

    この旅で、夫との会話も少し変わったように思います。これまでは「あの彫刻が素晴らしい」「この建物の様式は…」といった、目に見えるものについての会話が中心でした。しかし久高島では、「ここの空気、なんだか澄んでいるね」「この静けさが心地いいね」といった、五感で感じたことを、自然と分かち合っていました。二人で黙って海を眺めたり、星空を見上げたりする時間。その「何もしない時間」が、何よりもの贅沢であり、お互いの存在を再確認する貴重なひとときとなりました。

    便利さや効率がもてはやされる現代社会において、久高島は、私たちに「足りないことの豊かさ」を教えてくれます。コンビニも、高級レストランも、豪華なホテルもありません。しかし、そこには、澄んだ空気と、満天の星と、温かい人々の笑顔があります。そして、自分自身と静かに向き合い、生きていることへの感謝の念を抱かせてくれる、神聖な時間が流れています。

    久高島は、一度訪れたら終わり、という場所ではないように思います。季節を変え、また数年後に訪れた時、この島は私たちに何を語りかけてくれるのだろうか。そんなことを考えながら、私たちは島を後にしました。もし、あなたが日々の生活に少し疲れを感じていたり、人生の新たなステージで、何か大切なものを見つけたいと願っていたりするのなら。ぜひ一度、この神々の息吹が宿る島へ、足を運んでみてはいかがでしょうか。きっとそこには、あなたの心の故郷のような、温かく、そして厳かな風景が待っているはずです。

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    この記事を書いたトラベルライター

    子育てひと段落。今は夫と2人で「暮らすように旅する」を実践中。ヨーロッパでのんびり滞在しながら、シニアにも優しい旅情報を綴ってます。

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