時計の針が止まったかのような街があります。一歩足を踏み入れれば、そこはまるで中世の世界。喧騒と静寂、芳香と刺激的な香り、目もくらむほどの色彩と影が織りなす、生きた博物館。それが、モロッコ北部に位置する古都、フェズです。
世界最大とも言われる迷宮メディナ(旧市街)は、訪れる者を優しく惑わせ、時間という概念を忘れさせてくれます。狭い路地をロバが荷を運び、革を鞣す職人の声が響き、ミントティーの甘い香りが漂う。それは、教科書や映像では決して味わうことのできない、圧倒的なリアリティを持った体験です。
この街は、ただの観光地ではありません。ここは、千年以上もの間、人々が祈り、学び、働き、暮らしを営んできた場所。その歴史の地層に触れるとき、あなたの旅は単なる物見遊山を超え、魂を揺さぶる記憶へと昇華するでしょう。さあ、心のコンパスを頼りに、摩訶不思議なフェズの迷宮へと旅立ちましょうか。忘れられない冒険が、あなたを待っています。
時が堆積する街、フェズの素顔
モロッコの旅を考えるとき、多くの人がマラケシュやカサブランカ、あるいは青い街シェフシャウエンを思い浮かべるかもしれません。しかし、モロッコの魂の故郷はどこかと問われれば、多くのモロッコ人は迷わず「フェズ」と答えるでしょう。この街には、それほどまでに深く、濃密な歴史と文化が息づいているのです。
千年の歴史が息づく精神的首都
フェズの歴史は、8世紀の終わりにイドリス朝のイドリス1世によって礎が築かれたことに始まります。その後、息子のイドリス2世が本格的な都市として発展させ、アンダルシア(現在のスペイン南部)やカイラワーン(現在のチュニジア)からの移民を受け入れたことで、街はイスラム世界の学問と文化の中心地として急速に成長を遂げました。
特に黄金時代と称されるのが13世紀から14世紀にかけてのマリーン朝時代です。この時代に、現在見ることのできる壮麗なマドラサ(神学校)の多くが建設され、フェズは「西のアテネ」とまで呼ばれるほどの学術都市として栄華を極めました。世界最古の大学とされるカラウィン大学も、この街の知性の象徴として、今なおその権威を保っています。
1912年にフランスの保護領となり、政治的な首都はラバトへと移されましたが、フェズは宗教的、文化的な中心地としての地位を失うことはありませんでした。むしろ、そのために古き良き街並みが奇跡的に保存されることになったのです。1981年には、フェズの旧市街全体がユネスコの世界遺産に登録され、その歴史的価値は世界中から認められています。フェズを歩くことは、まさに歴史の書物のページを一枚一枚めくっていくような体験なのです。
三つの顔を持つ街:フェズ・エル・バリ、フェズ・エル・ジェディド、ヴィル・ヌーヴェル
フェズと一言で言っても、その顔は一つではありません。街は大きく分けて三つのエリアから構成されており、それぞれが異なる時代と役割を担っています。
フェズ・エル・バリ(Fes el-Bali)
「古きフェズ」を意味するこのエリアこそ、私たちがイメージする「迷宮都市フェズ」そのものです。イドリス朝によって築かれた、城壁に囲まれた旧市街。9000以上もの路地が複雑に絡み合い、車は一切入ることができません。人々の移動手段は徒歩かロバ。スーク(市場)、モスク、マドラサ、リヤド(邸宅)、そして人々の暮らしの全てが、この迷宮の中に凝縮されています。このエリアに足を踏み入れた瞬間、あなたはタイムスリップしたかのような錯覚に陥るでしょう。旅のハイライトは、間違いなくこのフェズ・エル・バリにあります。
フェズ・エル・ジェディド(Fes el-Jdid)
「新しきフェズ」を意味しますが、これも13世紀にマリーン朝によって建設された歴史ある地区です。フェズ・エル・バリの西側に隣接し、主に王宮(ダル・エル・マフゼン)と、かつてユダヤ人たちが暮らした地区「メッラー」で構成されています。フェズ・エル・バリに比べると道はやや広く整然としていますが、それでも十分に歴史の風格を感じさせます。きらびやかな王宮の黄金の門は、このエリアの象徴的な存在です。
ヴィル・ヌーヴェル(Ville Nouvelle)
フランス保護領時代に建設された、完全な新市街です。フェズ駅や近代的なホテル、レストラン、ブティック、官公庁などが集まり、ヨーロッパの都市と変わらない雰囲気が漂います。広い並木道が整備され、カフェのテラスでは人々がくつろいでいます。旧市街の喧騒から離れて一息つきたいときや、近代的な利便性を求める場合に訪れる場所です。メディナの混沌とした世界との対比が、フェズという都市の多層的な魅力をより一層際立たせてくれます。
旅のスタイルにもよりますが、多くの旅行者はフェズ・エル・バリの中にある伝統的な邸宅「リヤド」に宿をとり、迷宮の心臓部で眠り、目覚めるという非日常の体験を選びます。それが、フェズの魅力を最も深く味わうための鍵となるのですから。
迷宮の心臓部、フェズ・エル・バリを歩く
さあ、いよいよフェズの真髄、フェズ・エル・バリの探検です。地図はほとんど役に立ちません。GPSも空を覆う建物に遮られ、しばしば沈묵します。しかし、それでいいのです。ここでは、迷うことこそが正しい道。五感を研ぎ澄まし、目の前に広がる光景、耳に届く音、鼻をくすぐる香りに身を委ねてみましょう。
迷路の歩き方と心構え
フェズのメディナを歩く上で、最も大切なのは「迷子になることを恐れない」という心構えです。むしろ、積極的に迷うことを楽しんでください。思わぬ角を曲がった先で、秘密の広場に出たり、素晴らしい職人の工房を見つけたり、地元の人しか知らない小さなモスクの美しい扉に出会ったり。そんなセレンディピティ(偶然の発見)こそが、フェズ歩きの醍醐味なのです。
とはいえ、完全に方向感覚を失うのは不安なもの。いくつかのヒントがあります。メディナには「タラア・ケビーラ(Tala’a Kbira)」と「タラア・セギーラ(Tala’a Sghira)」という二本のメインストリートがあります。この二本は、ブー・ジュルード門からカラウィン・モスクの方向へと、ほぼ並行して下っています。もし道に迷ったら、人の流れが多い方へ、あるいは下り坂の方へ歩いていけば、このどちらかの通りに出られる可能性が高いです。
また、メディナ内には色分けされた観光ルートの標識も設置されています。主要な観光スポットを効率よく巡りたい場合は、この標識を頼りに歩くのも一つの手です。しかし、時には標識から外れて、細い路地に吸い込まれてみる勇気も持ちたいところ。
どうしても不安な場合は、公認ガイドを雇うことをお勧めします。彼らは迷宮を知り尽くしたプロフェッショナル。歴史や文化について深い解説を聞きながら歩けば、旅の理解度が格段に深まります。ただし、街中で声をかけてくる非公認のガイドには注意が必要です。親切を装って高額な料金を請求したり、特定のお土産物屋に連れて行こうとしたりすることがあります。「ガイドは必要ない」とはっきり伝える勇気を持ちましょう。「ノン、メルシー(No, thank you)」は、モロッコで覚えておくべき魔法の言葉です。
ブー・ジュルード門 – 壮麗なる迷宮への入り口
フェズ・エル・バリの西の端に堂々とそびえ立つ「ブー・ジュルード門(Bab Bou Jeloud)」は、まさに迷宮世界へのゲートウェイです。1913年にフランスによって建設された比較的新しい門ですが、そのデザインは伝統的なムーア様式を踏襲しており、圧倒的な存在感を放っています。
門の外側(ヴィル・ヌーヴェル側)は、鮮やかな青いモザイクタイル「ゼリージュ」で覆われています。この青は、フェズの色。街のシンボルカラーです。そして、門をくぐりメディナ側から振り返ると、タイルの色は緑色に変わっています。この緑は、イスラム教において神聖な色とされる預言者ムハンマドの色。外の世界から聖なるメディナへと入る、その境界線であることを象徴しているかのようです。この門をくぐる瞬間、あなたは間違いなく、これから始まる冒険への期待に胸を高鳴らせることでしょう。
タラア・ケビーラとタラア・セギーラ – メディナの二大動脈
ブー・ジュルード門を抜けると、道は二手に分かれます。左がタラア・ケビーラ(大きな坂道)、右がタラア・セギーラ(小さな坂道)。この二本の通りが、メディナを貫くメインストリートです。
通りは決して広くはありませんが、人とロバと物で常に活気に満ち溢れています。両脇には、食料品店、香辛料店、衣料品店、革製品店、カフェなどがひしめき合い、人々の暮らしのエネルギーが渦巻いています。焼きたてのパンの香ばしい匂い、スパイスの芳醇な香り、ミントティーの甘い香り。店主たちの呼び込みの声、ロバ使いの「バーラック!(道を開けて!)」という叫び声、子供たちのはしゃぐ声。あらゆる音と匂いが混じり合い、五感を激しく揺さぶります。この混沌としたエネルギーこそが、フェズ・エル・バリの生命力そのものなのです。
五感を刺激するスーク(市場)の世界
タラア・ケビーラやタラア・セギーラから一歩脇道に入ると、そこは専門の職人たちが集まるスークの世界が広がっています。商品や職業ごとにエリアが分かれており、それぞれが独特の雰囲気を持っています。
スーク・アッタリーン – 香辛料と魔法の香り
カラウィン・モスクの近くに広がるのが「スーク・アッタリーン」。ここは、香りの王国です。色とりどりのスパイスがピラミッドのように積まれ、クミン、コリアンダー、サフラン、ターメリックといったエキゾチックな香りが空間を満たしています。ドライフルーツやナッツ、バラの蕾、そして伝統的な化粧品であるコール(アイライナー)やガスール(粘土)、アルガンオイルなども売られています。店先で調合されるオリジナルの香水は、まるで魔法の媚薬のよう。このスークを歩くだけで、体中がモロッコの香りに包まれていくようです。
スーク・ネッジャリーン – 木工職人の技が光る
ネッジャリーン木工芸博物館の周辺に広がるのが、木工職人たちのスークです。ここでは、レモンや杉の木の良い香りが漂い、トントンと木を彫る小気味よい音が響きます。職人たちが手作業で作り出すのは、美しい装飾が施された箱やテーブル、椅子、チェス盤など。精緻な寄木細工「マルケトリー」や透かし彫りの技術は、まさに芸術品。静かな工房で黙々と作業に打ち込む職人の姿は、それ自体が感動的な光景です。
スーク・セッファリーン – 響き渡る銅の交響曲
セッファリーン広場(Place Seffarine)は、銅や真鍮の職人たちが集まるエリアです。ここでは、カンカン、キンキンというリズミカルな金属音が一日中鳴り響いています。職人たちがハンマーを振るい、一枚の金属板から美しいトレイやランプ、タジン鍋などを叩き出していく様子は、まるで音楽を奏でるオーケストラのよう。火花を散らしながら作業する姿は力強く、その真剣な眼差しからは、古くから受け継がれてきた技術への誇りが感じられます。この広場に満ちる音と熱気は、フェズの産業の心臓の鼓動と言えるでしょう。
スーク・エル・ヘンナ – 美と癒しの広場
かつて隊商宿(フォンデュク)があった場所に開かれる小さな広場が「スーク・エル・ヘンナ」です。ここでは、髪や肌を染めるためのヘナの粉、伝統的な化粧品、薬草、そして護符などが売られています。広場の中心にある大きな木の下で、女性たちがヘナを売る姿はどこか神秘的。マラケシュのジャマ・エル・フナ広場のような華やかさはありませんが、よりローカルで、人々の生活に根差した不思議な魅力に満ちた場所です。
これらのスークを巡ることは、単なる買い物ではありません。それは、フェズの職人たちの魂に触れ、この街を支える伝統技術の奥深さを知る旅でもあるのです。
フェズで見るべき歴史の至宝
迷宮の路地を彷徨うだけでなく、フェズには息をのむほど美しいイスラム建築の傑作が点在しています。それらは、この街がかつてどれほどの富と知性を誇っていたかを雄弁に物語っています。
ブー・イナニア・マドラサ – イスラム建築の最高傑作
フェズに数あるマドラサ(神学校)の中でも、最も壮麗で保存状態が良いとされるのが、タラア・ケビーラの通り沿いにある「ブー・イナニア・マドラサ」です。14世紀半ば、マリーン朝のスルタン、アブー・イナーンによって建設されました。
一歩中庭に足を踏み入れると、その緻密で豪華絢爛な装飾に誰もが言葉を失うでしょう。壁面を埋め尽くすのは、幾何学模様のモザイクタイル「ゼリージュ」。床から腰の高さまでを彩るタイルの精緻さは、まさに神業です。その上には、コーランの一節などが刻まれた驚くほど繊細な漆喰彫刻「スタッコ」が施され、天井近くには、杉の木(シダーウッド)に見事な彫刻がなされています。これら三つの要素(ゼリージュ、スタッコ、木彫り)が完璧な調和をもって配置され、空間全体が一つの芸術作品となっています。
このマドラサが特別なのは、ミナレット(光塔)とミンバル(説教壇)を備え、金曜礼拝も行われるモスクとしての機能も持っていた点です。そして何より、イスラム教徒以外でも中に入ることができる、フェズでは数少ない貴重な宗教建築の一つなのです。中庭を囲むように配置された学生たちの小さな寄宿部屋も見学でき、かつてここで学んだ若者たちの息遣いが聞こえてくるかのようです。光と影が織りなす中庭の静寂に身を置けば、マリーン朝時代の栄華が時を超えて蘇ります。
カラウィン・モスクと大学 – 世界最古の学び舎
フェズ・エル・バリの中心部にどっしりと構えるのが「カラウィン・モスクと大学」です。その歴史は古く、859年にチュニジアのカイラワーンから移住してきた裕福な女性、ファーティマ・アル=フィフリーによって創設されました。モスクとして始まり、やがて併設された教育機関が発展して大学となり、ヨーロッパのボローニャ大学やオックスフォード大学よりも古くから続く「世界最古の大学」としてギネスブックにも認定されています。
残念ながら、このモスクと大学の内部はイスラム教徒にしか開放されていません。しかし、嘆くことはありません。メディナの路地を歩いていると、ふと開かれた扉の隙間から、緑色の瓦屋根が美しい広大な中庭や、無数の柱が林立する荘厳な礼拝堂の一部を垣間見ることができます。その一瞬の光景だけでも、この場所が持つ計り知れない歴史の重みと、知の殿堂としての威厳を感じ取ることができるでしょう。周囲のスークの喧騒とは対照的な、静かで神聖な空気が漂っています。外からその存在感を感じるだけでも、訪れる価値は十分にあります。
タンネリ・シュワラ – 圧巻の染色職人街
フェズの代名詞ともいえる風景が、ここ「タンネリ・シュワラ(Chouara Tannery)」にあります。タンネリとは、動物の皮を鞣し、染色する作業場のことで、フェズにはいくつかのタンネリがありますが、シュワラが最大規模を誇ります。
この光景を最もよく見渡せるのは、周辺に建ち並ぶ革製品店の屋上テラスです。店に入ると、強烈な匂いを和らげるためのミントの葉を渡されます。階段を上りきり、テラスに出た瞬間に目に飛び込んでくるのは、蜂の巣のように並んだ無数の石桶です。白い桶には鳩の糞を溶かした液体(皮を柔らかくするため)、色とりどりの桶にはサフラン(黄)、ポピー(赤)、インディゴ(青)といった天然染料が満たされています。
職人たちは、灼熱の太陽の下、腰まで液体に浸かりながら、巨大な羊や牛、ラクダの皮を足で踏みつけ、染料の桶から桶へと移していく。それは、中世から何一つ変わっていないであろう、過酷で原始的な肉体労働です。強烈な匂い、鮮やかすぎる色彩、そして職人たちの力強い動き。この場所は、美しいだけの観光地ではありません。生々しい労働の現実と、伝統を守り続ける人々の誇りが渦巻く、圧倒的な生命力に満ちた空間なのです。その光景は、一度見たら決して忘れることのできない強烈な記憶として、心に刻まれるはずです。
ネッジャリーン木工芸博物館 – 職人技の殿堂
スーク・ネッジャリーンに隣接する美しい建物が「ネッジャリーン木工芸博物館」です。この建物は、18世紀に建てられたフォンデュク(Funduq)、すなわち隊商宿を改装したもの。かつては遠方から訪れた商人たちが、商品である家畜とともに宿泊した場所でした。
建物自体が芸術品であり、三層吹き抜けの中庭を囲む回廊の柱や手すりには、見事な木彫り装飾が施されています。博物館の展示品は、フェズの木工職人たちが生み出した家具や楽器、日用品、建築部材など。その精緻な技術と芸術性の高さに驚かされます。
そして、この博物館のもう一つのお楽しみが、屋上にあるカフェです。ここからは、迷宮のようなメディナの家並みと、緑色の屋根瓦が美しいカラウィン・モスクの姿を一望することができます。喧騒を離れ、ミントティーを片手に眼下に広がる絶景を眺める時間は、まさに至福のひととき。メディナ歩きに少し疲れたら、ぜひ立ち寄りたい癒やしのスポットです。
王宮(ダル・エル・マフゼン) – 黄金の門の輝き
フェズ・エル・ジェディド地区に位置する「王宮(ダル・エル・マフゼン)」は、現在もモロッコ国王がフェズを訪問する際に滞在する現役の宮殿です。そのため、残念ながら内部に入ることはできません。しかし、この王宮のハイライトは、その正面にあります。
広大な敷地を囲む城壁に設けられた、7つの巨大な門。これが王宮のシンボルです。真鍮でできた扉は、太陽の光を浴びて黄金色に輝き、その周りを緻密なゼリージュタイルと杉の木の彫刻が彩ります。それぞれの門は大きさもデザインも異なり、その壮麗さと威厳は見る者を圧倒します。特に夕暮れ時、西日に照らされて輝く門の姿は格別です。多くの観光客がこの門の前で記念撮影をする、フェズ屈指のフォトジェニックなスポットとなっています。
フェズの美食を味わい尽くす
旅の喜びは、その土地の料理にあります。フェズは、モロッコの中でも特に美食の街として知られています。宮廷料理の伝統を受け継ぐ洗練された味から、路地裏で味わう素朴なストリートフードまで、多彩な食文化が旅人の舌を楽しませてくれます。
魂の料理、タジンとクスクス
モロッコ料理の二大巨頭といえば、円錐形の土鍋でじっくり煮込んだ「タジン」と、世界最小のパスタともいわれる「クスクス」です。
タジンは、食材の水分だけで蒸し煮にするため、肉や野菜の旨味が凝縮されています。フェズのタジンは、プルーンやアプリコットなどのドライフルーツや、アーモンド、ハチミツを使った甘い味付けが特徴的。「ラムとプルーンのタジン」や「チキンとレモン、オリーブのタジン」は、ぜひ試していただきたい逸品です。甘さと塩気、そしてスパイスが織りなす複雑な味わいは、一度食べたら忘れられません。
クスクスは、本来は金曜日の昼食など、家族や親戚が集まる特別な日に食べられる料理です。蒸してふっくらとさせたクスクスの粒の上に、野菜や肉を煮込んだスープをかけていただきます。レストランではいつでも食べられますが、リヤドなどで金曜日にいただけたなら、それは幸運なこと。モロッコの家庭の温かさに触れることができるでしょう。
ストリートフードの誘惑
フェズの食の真髄は、地元の人々に愛されるストリートフードにこそあるのかもしれません。メディナの路地を歩けば、食欲をそそる香りがどこからともなく漂ってきます。
朝食の定番は「メリウイ(M’semen)」という、薄く伸ばした生地を何層にも折りたたんで焼いたモロッカン・クレープ。外はパリパリ、中はもっちりとした食感がたまりません。ハチミツやチーズを塗っていただきます。
日没後、特にラマダン(断食月)の時期に欠かせないのが「ハリラ(Harira)」というスープです。トマトベースにひよこ豆やレンズ豆、肉、香辛料が入った栄養満点の一杯。身体の芯から温まります。
小腹が空いたら「スフェンジ(Sfenj)」はいかがでしょう。揚げたてのリングドーナツで、外はカリッ、中はふわふわ。砂糖をまぶして熱々を頬張るのが最高です。
そして、少し勇気が必要かもしれませんが、ぜひ挑戦してほしいのがカタツムリのスープ「バブーシュ(Babbouche)」。スパイスで煮込まれたカタツムリは、意外にもクセがなく滋味深い味わい。地元の人々に混じって屋台で味わう体験は、きっと忘れられない思い出になるはずです。
甘美なミントティーの儀式
モロッコを旅していると、至る所で「ミントティー」に出会います。それは単なる飲み物ではなく、人々のおもてなしの心、「アッサラーム・アレイクム(あなたに平和を)」の精神を象徴する大切な文化です。
中国緑茶に、これでもかというほどフレッシュなミントの葉と、たっぷりの砂糖を加えて作られます。高い位置から泡立てるようにグラスに注ぐのが正式な作法。この泡は歓迎の証とされています。その甘さに最初は驚くかもしれませんが、歩き疲れた身体にはこの糖分が心地よく染み渡ります。
スークの店先で、リヤドの客間で、カフェのテラスで。ミントティーを飲む時間は、モロッコの人々と心を通わせる貴重なひととき。ぜひ、この甘美な儀式を心ゆくまで楽しんでください。
リヤドで味わう特別なディナー
フェズでの食事体験を最高のものにしたいなら、宿泊しているリヤドでのディナーを予約することをお勧めします。多くのリヤドでは、宿泊客のために家庭的なモロッコ料理を用意してくれます。
リヤドの食事は、レストランとは一味違います。その日の朝にスークで仕入れた新鮮な食材を使い、代々受け継がれてきたレシピで丁寧に作られる料理は、まさに「おふくろの味」。中庭の噴水の音を聞きながら、キャンドルの灯りの下でいただくディナーは、ロマンチックで忘れられない夜を演出してくれます。前菜のサラダ盛り合わせからメインのタジン、そしてデザートまで、心のこもった料理の数々に、きっと満たされることでしょう。人気のリヤドでは予約が必須なので、早めに伝えておくのが賢明です。
旅の拠点、魅惑のリヤドに泊まる
フェズでの滞在を特別なものにする上で、宿泊選びは極めて重要です。近代的なホテルも選択肢にはありますが、この街の魅力を最大限に享受したいのであれば、迷わず「リヤド」を選ぶべきです。
リヤドとは? – 喧騒の中の楽園
リヤド(Riad)とは、アラビア語で「庭」を意味する言葉で、もともとは富裕層の邸宅だった建物を改装した宿泊施設を指します。その最大の特徴は、建物の中心にパティオ(中庭)があること。
メディナの狭く薄暗い路地にある、何の変哲もない扉を開けると、そこには別世界が広がっています。太陽の光が降り注ぐ中庭には噴水が涼しげな音を立て、色鮮やかなゼリージュタイルが輝き、緑豊かな植物が植えられています。外の喧騒が嘘のような、静寂と安らぎに満ちた空間。リヤドは、まさに砂漠の中のオアシス、喧騒の中の楽園なのです。
部屋の窓はすべてこの中庭に面して作られており、プライバシーを守りつつ、心地よい光と風を取り込む工夫がなされています。イスラム建築の美学と、家族の暮らしを守る知恵が結実した、素晴らしい建築様式と言えるでしょう。
リヤド選びのポイント
フェズには、数百ものリヤドが存在し、そのスタイルは様々です。豪華絢爛な宮殿のようなリヤドから、家族経営のアットホームなリヤドまで、予算と好みに合わせて選ぶことができます。
リヤドを選ぶ際のポイントはいくつかあります。
- 立地: フェズ・エル・バリのどのエリアにあるかは重要です。ブー・ジュルード門やタラア・ケビーラに近い場所はアクセスが便利ですが、少し奥まった場所にあるリヤドはより静かで落ち着いた滞在が楽しめます。
- 規模と雰囲気: 大規模でホテルのようなサービスを提供するリヤドもあれば、客室数が数室でオーナー家族が温かく迎えてくれる小さなリヤドもあります。どんな滞在をしたいかを考えて選びましょう。
- 設備とサービス: 屋上テラスの有無は重要なチェックポイント。メディナの絶景を眺めながら朝食をとったり、夕日を眺めたりできるテラスは、リヤド滞在の価値を大いに高めてくれます。ハマム(伝統的なスチームバス)やプールを備えたリヤドもあります。
- 口コミ: 実際に宿泊した人のレビューは、写真だけではわからないリヤドの雰囲気やサービスの質を知る上で非常に参考になります。
自分にぴったりのリヤドを見つけることができれば、フェズの旅は数倍も豊かなものになるはずです。それは単なる宿泊場所ではなく、旅の目的地そのものになり得る存在なのですから。
フェズ観光の実用情報
魅力あふれるフェズの旅を快適で安全なものにするために、いくつか知っておきたい実用的な情報があります。事前の準備が、旅の質を大きく左右します。
ベストシーズンと気候
フェズを訪れるのに最も快適なシーズンは、春(3月〜5月)と秋(9月〜11月)です。この時期は気候が穏やかで、日中は暖かく過ごしやすい一方、朝晩は少し肌寒いことがあるので羽織るものがあると便利です。街歩きには最適な季節と言えるでしょう。
夏(6月〜8月)は非常に暑く、日中の気温が40度を超えることも珍しくありません。日差しも強烈なので、帽子やサングラス、日焼け止めは必須です。日中の暑い時間帯はリヤドで休憩し、比較的涼しい早朝や夕方に行動するのが賢明です。
冬(12月〜2月)は、日中は比較的暖かい日もありますが、朝晩はかなり冷え込みます。特に石造りの建物が多いメディナ内は底冷えするため、しっかりとした防寒対策が必要です。雨が降ることも多くなります。
フェズへのアクセス
日本からフェズへの直行便はありません。一般的には、パリ、イスタンブール、ドバイ、ドーハなど、ヨーロッパや中東の主要都市を経由してフェズ・サイス空港(FEZ)に入るルートが主流です。
モロッコ国内の他の都市からフェズへ移動する場合は、鉄道(ONCF)が便利で快適です。カサブランカ、ラバト、マラケシュ、タンジェといった主要都市から、近代的で清潔な列車が運行しています。特にカサブランカやラバトからの所要時間は比較的短く、車窓の風景を楽しみながら移動できます。
また、CTMやSupratoursといった会社の長距離バスも、安価で信頼性の高い移動手段です。シェフシャウエンなど鉄道が通っていない街へは、バスが唯一の公共交通機関となります。
旅の注意点とマナー
フェズは比較的安全な街ですが、異文化の地を旅する上での心得として、いくつか注意点とマナーを知っておくと良いでしょう。
服装について
モロッコはイスラム教国です。特に女性は、地元の文化に敬意を払い、肩や膝が隠れるような服装を心がけると、無用な注目を避けることができます。メディナの路地は石畳で舗装状態も良くない場所が多いため、歩きやすいスニーカーやフラットシューズは必須です。
写真撮影のマナー
美しい街並みやスークの活気は絶好の被写体ですが、人を撮影する際には必ず一言許可を得るのがマナーです。特に女性や、仕事中の職人の中には撮影を嫌がる人もいます。無断でカメラを向けることは避けましょう。また、モスクなどの宗教施設や軍事施設、警察官などの撮影は禁止されている場合があります。
客引きや非公式ガイド
メディナを歩いていると、「ガイドは要らないか?」「こっちに良い店がある」などと声をかけられることが頻繁にあります。興味がなければ、曖昧な態度はとらずに、笑顔で「ノン、メルシー(結構です)」とはっきり断りましょう。しつこい場合もありますが、毅然とした態度で無視して歩き去れば、大抵は諦めます。
水と衛生
水道水は飲用には適していません。必ずミネラルウォーターを購入して飲むようにしましょう。レストランで出される氷にも注意が必要です。また、屋台の食事を楽しむ際は、清潔そうなお店を選ぶように心がけましょう。
フェズから足を延ばす小旅行
フェズを拠点にすれば、日帰りや1泊2日で訪れることのできる魅力的なデスティネーションがいくつもあります。迷宮都市の探検に加えて、少し違ったモロッコの顔に会いに行ってみませんか。
青の街、シェフシャウエンへ
リフ山脈の麓に佇む、幻想的な青い街シェフシャウエン。壁も扉も階段も、様々なトーンの青色で染め上げられたメディナは、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのよう。フェズからはバスで約4時間の距離にあり、日帰りも可能ですが、観光客が去った後の静かな朝夕の散策や、山々に沈む夕日を眺めるためにも、ぜひ1泊することをお勧めします。フェズの喧騒とは対照的な、穏やかでフォトジェニックな時間を過ごせるでしょう。
ローマ遺跡の眠るヴォルビリスと聖都ムーレイ・イドリス
歴史好きなら見逃せないのが、フェズから西へ約1時間の場所にある世界遺産「ヴォルビリスの古代遺跡」です。紀元前3世紀から栄えた古代ローマ時代の都市遺跡で、広大な敷地には見事なモザイク画が数多く残る邸宅跡や、凱旋門、神殿などが点在しています。
ヴォルビリスのすぐ近くには、白壁の家々が丘に連なる聖都「ムーレイ・イドリス」があります。モロッコを建国したイドリス1世の霊廟があるこの街は、イスラム教徒にとって重要な巡礼地。かつては異教徒の宿泊が許されませんでしたが、現在はその禁も解かれています。丘の上からの眺めは素晴らしく、ヴォルビリスとセットで訪れるのが定番のコースです。
アトラス山中のイフレン
フェズから南へ車で1時間ほど走ると、風景は一変します。そこは「モロッコのスイス」とも呼ばれる高原リゾート地、イフレンです。赤い三角屋根のヨーロッパ風の建物が並び、整然とした街並みは、ここがモロッコであることを忘れさせるほど。夏は涼しい避暑地として、冬は雪が積もり、スキーリゾートとして賑わいます。フェズの混沌とした熱気から逃れて、アトラス山脈の澄んだ空気の中でリフレッシュするのも良いでしょう。
これらの小旅行は、フェズという都市の個性をより一層際立たせ、モロッコの多様な魅力を深く理解する手助けとなってくれるはずです。あなたの旅が、忘れ得ぬ記憶のタペストリーとなりますように。

