オーストリアと聞けば、多くの人が帝都ウィーンの華麗な宮殿や、ザルツブルクの美しい街並みに響くモーツァルトの調べを思い浮かべるかもしれません。しかし、この国の南東に、知る人ぞ知る宝石のような街が静かに佇んでいることをご存知でしょうか。その名は、グラーツ。オーストリア第二の都市でありながら、どこか穏やかで親密な空気が流れるこの街は、訪れる者を優しく迎え入れ、そして深く魅了します。
ムーア川のほとりに広がる旧市街は、中世からルネサンス、バロックへと続く時代の息吹を今に伝える「建築の博物館」。オレンジ色に輝く赤い屋根の波は、ユネスコ世界遺産にも登録された珠玉の景観です。丘の上から街を見守る時計塔、迷路のように入り組んだ路地、荘厳な教会、そして活気あふれる広場。一歩足を踏み入れれば、まるで時が巻き戻されたかのような感覚に包まれるでしょう。
しかし、グラーツの魅力は過去の栄光だけにとどまりません。この街は「ユネスコ・デザイン都市」にも認定された、革新と創造性の発信地でもあるのです。歴史的な街並みの中に突如として現れる、宇宙船のようなアートミュージアムや川に浮かぶ鋼鉄の島。古き良きものと、誰も見たことのない新しいものが、ここでは何の違和感もなく共存し、刺激的なハーモニーを奏でています。
さらに、グラーツは「オーストリアの美食の都」という、もう一つの輝かしい称号を持っています。太陽の光をたっぷりと浴びたシュタイヤマルク州の豊かな大地が育んだ、新鮮な野菜や果物、芳醇なワイン、そして”緑の黄金”と称されるパンプキンシードオイル。街の市場は常に活気に満ち、伝統料理からモダンなガストロノミーまで、食を愛する者の五感を満たしてやみません。
歴史と未来が交差し、文化と美食が薫る街、グラーツ。この記事では、そんな多面的な魅力を持つグラーツの奥深い世界へと皆様をご案内します。さあ、一緒に時を旅する準備はできましたか?赤い屋根の迷宮を抜け、未来への扉を開ける、忘れられない旅がここから始まります。
時を刻む赤い屋根の海へ グラーツ旧市街を歩く
グラーツの旅は、何をおいても世界遺産に登録されている旧市街から始めるべきでしょう。ムーア川の東岸に広がるこのエリアは、まるで時間が魔法をかけたかのように、中世から近世にかけてのヨーロッパの面影を色濃く残しています。石畳の道を一歩一歩踏みしめるたびに、歴史の囁きが聞こえてくるかのようです。ここは単なる観光地ではありません。人々が暮らし、笑い、語り合う、生きた歴史の舞台なのです。
街のシンボル、シュロスベルクの丘から
旧市街の中心に、こんもりとした緑の丘がそびえています。それがシュロスベルク(城の山)。その名の通り、かつては難攻不落と謳われた要塞がこの丘の上に君臨していました。19世紀初頭、ナポレオン軍によってそのほとんどが破壊されてしまいましたが、グラーツ市民の熱意と寄付によって、二つの象徴的な建造物が奇跡的に守られました。今では市民の憩いの公園として、そして街を一望する最高の展望台として、愛され続けています。
時計塔(ウーアトゥルム)の優しい眼差し
シュロスベルクの斜面に凛と立つ、白い壁と赤い屋根の時計塔(Uhrturm)。これこそが、グラーツの紛れもないシンボルです。13世紀にその原型が造られ、現在の姿になったのは16世紀のこと。市民がナポレオン軍に身代金を支払い、破壊から守ったという逸話は、この塔がいかに人々に愛されているかを物語っています。
塔に近づいて、文字盤をよく見てみてください。何か不思議なことに気づくはずです。そう、長針と短針の役割が一般的な時計とは逆なのです。長い針が時間を、短い針が分を示しています。これは、もともと時を示す長針しかなかった時計に、後から分を示す短針が付け加えられたため。昔の人々にとって、大まかな「時」を知ることが何より重要だったという、時代の名残がこんな形で見られるのも面白いものです。
時計塔の周りには美しい花々が咲き誇る庭園が広がり、ベンチに腰掛けて眼下に広がる赤い屋根の海を眺めていると、時が経つのを忘れてしまいます。夕暮れ時には、街並みが黄金色に染まり、ロマンチックな雰囲気に包まれます。この景色を見るためだけに、グラーツを訪れる価値がある。そう断言できるほどの絶景が、ここにはあります。
鐘楼(グロッケントゥルム)の力強い響き
時計塔から少し歩くと、もう一つの市民の誇り、鐘楼(Glockenturm)が見えてきます。ここには「Liesl」という愛称で呼ばれる、シュタイヤマルク州で最も大きな鐘が吊るされています。かつてトルコ軍から奪った大砲を溶かして作られたというこの鐘は、毎日3回(午前7時、正午、午後7時)、101回の鐘を鳴らします。その重厚で厳かな響きは、街全体にこだまし、人々に時を告げるとともに、街の平和を守ってきた歴史を伝えているかのようです。
丘へのアクセスは歩き?それともエレベーター?
シュロスベルクの頂上へは、いくつかの方法でアクセスできます。体力に自信のある方は、ハウプト広場の北側から伸びる石段「クリークスシュタイク(Kriegssteig)」を登ってみるのがおすすめです。第一次世界大戦中に捕虜によって建設されたというこのジグザグの階段を登りきれば、達成感とともに素晴らしい景色が待っています。
もっと楽に登りたいという方には、丘の内部を貫くガラス張りのエレベーター「シュロスベルク・リフト」が便利です。わずか30秒ほどで一気に頂上へ。また、麓から頂上までを結ぶケーブルカー「シュロスベルクバーン」も人気です。急勾配をゆっくりと登っていく車窓からの眺めは格別で、それ自体がアトラクションの一つと言えるでしょう。どちらを選ぶか、それもまたグラーツ散策の楽しみの一つです。
活気あふれる街の中心、ハウプト広場
シュロスベルクの麓に広がるのが、旧市街の心臓部であるハウプト広場(Hauptplatz)です。ここは、中世の時代から市場が開かれ、人々が集う交流の場でした。広場を囲むように、パステルカラーの美しい建物がずらりと並び、そのファサード(建物の正面)には漆喰装飾やフレスコ画が施され、一つとして同じものはありません。まるで建築の展覧会を見ているようで、首が痛くなるほど見上げてしまいます。
広場の中央には、オーストリア帝国の近代化に貢献したヨハン大公の銅像が力強く立っています。彼を囲むように立つ4体の女性像は、シュタイヤマルク州を流れる4つの主要な川(ムーア川、エンス川、ドナウ川、サヴァ川)を象徴しています。
日中は、広場に並ぶソーセージスタンド「ヴルステルスタンド」から香ばしい匂いが漂い、多くの人々で賑わいます。焼きソーセージをパンに挟んだだけのシンプルな軽食ですが、これがまた格別。地元の人々に混じって熱々のソーセージを頬張れば、あなたもすっかりグラーツ市民の仲間入りです。冬には、この広場が巨大なクリスマスマーケットの中心となり、幻想的な光と温かいグリューワインの香りに包まれます。
騎士たちの夢の跡、州立武器庫(ランデスツォイクハウス)
ハウプト広場からほど近いヘレンガッセ通りに、世界でも類を見ない、驚異的な博物館があります。それが州立武器庫(Landeszeughaus)です。一見すると他の歴史的な建物と変わりませんが、その扉の向こうには、息をのむような光景が広がっています。
4階建ての建物の内部には、床から天井まで、約3万2000点にも及ぶ15世紀から18世紀にかけての武具や武器が、まるで現役の武器庫さながらに整然と保管されているのです。騎士の甲冑、槍、剣、マスケット銃、ピストル…。その膨大なコレクションは、単なる展示品ではありません。これらはすべて、かつてオスマン・トルコの脅威に備えるために、シュタイヤマルク州の領民を守るべく実際に保管されていた「本物」なのです。
薄暗い照明の中、ずらりと並ぶ甲冑の列を目の当たりにすると、まるで今にも騎士たちが動き出し、鬨の声をあげるのではないかという錯覚に陥ります。一つ一つの傷やへこみが、激しい戦いの歴史を物語っています。ここは、ヨーロッパの歴史におけるキリスト教世界とイスラム世界の最前線であったグラーツの、緊張感に満ちた過去を肌で感じることができる、唯一無二の場所。歴史好きならずとも、その圧倒的な迫力に心を揺さぶられることでしょう。
皇帝の威光と静寂、グラーツ大聖堂とマウソレウム
武器庫の喧騒から少し離れ、静かな一角へと歩を進めると、ゴシック様式の荘厳なグラーツ大聖堂(Dom)が見えてきます。15世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によって建てられたこの教会は、かつては宮廷教会としての役割を担っていました。
外観は比較的シンプルですが、一歩中に足を踏み入れると、その豪華な内装に驚かされます。特に目を引くのは、祭壇の両脇に置かれた二つの「聖遺物箱」。象牙や真珠で精巧に装飾されたこの箱は、結婚式の際に贈られたもので、当時の最高峰の工芸技術の結晶です。
そして、大聖堂のすぐ隣に、ターコイズブルーのドームが印象的な霊廟、マウソレウム(Mausoleum)が寄り添うように建っています。これは、ハプスブルク家の中でも異彩を放った皇帝フェルディナント2世が、自身と家族のために建設させたものです。イタリア・バロック様式の傑作とされ、内部は豪華な大理石や漆喰装飾、フレスコ画で埋め尽くされており、まるで天上の世界のよう。大聖堂の静謐さとは対照的な、圧倒的な権力と富の誇示がここにあります。この二つの建物が隣り合って立つ姿は、信仰と権威という、グラーツの歴史を形作ってきた二つの大きな力を象徴しているかのようです。
中庭巡りの愉しみ、ランドハウスと隠れた名所
グラーツ旧市街の散策の醍醐味の一つが、「中庭(ホーフ)巡り」です。表通りからは想像もつかないような、美しく静かな空間が建物の内側に隠されています。その代表格が、州議会議事堂として使われているランドハウス(Landhaus)の中庭です。
イタリア・ルネサンス様式の傑作とされるこの中庭は、三層からなるアーケードの回廊が実に見事。光と影が織りなす回廊の造形美は、思わずため息が出るほど。夏にはここで野外コンサートが開かれ、冬には氷のキリスト降誕場面(クリッペ)が飾られるなど、市民の文化活動の舞台ともなっています。
また、ドイツ騎士団の館(Deutschritterordenshaus)のゴシック様式の中庭や、ヘレンガッセ通り沿いの邸宅に隠された中庭など、探検気分で路地裏に入ってみると、思いがけない発見があるかもしれません。ガイドブックには載っていない、あなただけの秘密の場所を見つける。それもまた、グラーツ散策の忘れられない思い出となるでしょう。
古都に現れた未来からの使者 デザイン都市の顔
中世の面影が色濃いグラーツの街を歩いていると、突如として時空が歪んだかのような、奇妙で、それでいて強烈な引力を持つ建物に出会います。これこそが、グラーツが「デザイン都市」たる所以。歴史を大切に守りながらも、未来へと開かれた扉を大胆に設置する。その勇気と遊び心が、この街を唯一無二の存在にしています。
親しみを込めて呼ぶ「フレンドリー・エイリアン」、クンストハウス・グラーツ
ムーア川の西岸、赤い屋根の家々が密集する地区に、ぬらりとした青い巨大な生命体が着陸したかのように、その建物はあります。クンストハウス・グラーツ(Kunsthaus Graz)、現代美術館です。2003年、グラーツが欧州文化首都に選ばれたことを記念して建設されました。
ロンドンの建築家、ピーター・クックとコリン・ Fournierによって設計されたこの建物は、アメーバやナマコのような、あるいは深海生物のような、有機的なフォルムをしています。そのあまりに奇抜な姿から、グラーツ市民は親しみを込めて「フレンドリー・エイリアン(Friendly Alien)」と呼びます。
建物の表面は1000枚以上のアクリルガラスで覆われ、その下には円形の蛍光灯が埋め込まれています。夜になると、この蛍光灯が点滅し、ファサード全体が巨大なスクリーンとなって、映像やメッセージを映し出す「BIXファサード」というメディア・インスタレーションが始まります。まるで建物自体が呼吸し、街に語りかけているかのようです。
内部は、展示スペースとしての機能性を追求したシンプルな空間が広がっています。企画展が中心で、訪れるたびに異なる現代アートの世界に触れることができます。最上階の「ニードル」と呼ばれる突起部分にあるカフェからは、対岸の旧市街とシュロスベルクの景色を、まるで額縁に入った絵画のように眺めることができます。歴史的な景観の中に、これほど大胆な現代建築を融合させてしまうグラーツの懐の深さ。クンストハウスは、まさにその象徴と言えるでしょう。伝統と革新は対立するものではなく、互いを引き立て合うパートナーなのだと、このフレンドリー・エイリアンは静かに教えてくれます。
ムーア川に浮かぶ鋼の島、ムーアインゼル
クンストハウスからほど近く、グラーツの街を二分するムーア川の真ん中に、もう一つの未来的なオブジェが浮かんでいます。ニューヨークのアーティスト、ヴィト・アコンチがデザインした「ムーアインゼル(Murinsel)」、すなわち「ムーア川の島」です。
これもまた、2003年の欧州文化首都を記念して造られました。鋼鉄とガラスでできたこの人工島は、巨大な巻貝のようにも、網のようにも見える複雑な構造をしています。両岸とは橋で結ばれており、人々は自由に行き来することができます。
この「島」の内部には、ユニークな空間が三つあります。一つは、青い光が幻想的なカフェ。川の流れを間近に感じながら、コーヒーやカクテルを楽しむことができます。二つ目は、野外劇場として使える円形劇場(アンフィテアター)。そして三つ目は、子供たちのための遊び場です。
ムーアインゼルは、単なる橋でも、建物でもありません。それは、これまで街を分断していた川を、人々が出会い、交流する「つなぐ」場所へと変えた、画期的なアイデアの結晶です。夜には青くライトアップされ、川面にその姿を映す光景は、息をのむほど幻想的。昼間はカフェでくつろぎ、夜はロマンチックな散歩を楽しむ。ムーアインゼルは、グラーツの日常に溶け込んだ、なくてはならないアートスポットなのです。
デザインに触れる、街角のアートとショップ
デザイン都市グラーツの魅力は、クンストハウスやムーアインゼルのような巨大なモニュメントだけではありません。街のいたるところに、デザインの精神が息づいています。
例えば、旧市街のメインストリート、ヘレンガッセ(Herrengasse)。歴史的な建物の1階には、洗練されたセレクトショップやデザイン雑貨店が並び、ショーウィンドウを眺めているだけでも心が躍ります。古い建物の意匠を活かしながら、モダンな感性でリノベーションされた店内は、それ自体が見るべきアートです。
また、少し路地に入れば、地元の若手デザイナーが手がけるアトリエ兼ショップや、ユニークなコンセプトのギャラリーが見つかることも。街を歩きながら、ふと目にした看板のタイポグラフィ、カフェのインテリア、公共のベンチのデザインにまで、美意識と遊び心が感じられます。
グラーツは、美術館の中に閉じ込められたアートではなく、「暮らしの中のデザイン」を大切にしている街なのです。歴史散策の合間に、ぜひ現代のデザインを探す冒険にも出かけてみてください。きっと、この街のもう一つの顔に魅了されるはずです。
オーストリアの美食の都 グラーツの食文化を巡る冒険
グラーツを語る上で絶対に欠かせないのが、「食」の魅力です。グラーツが位置するシュタイヤマルク州は、その温暖な気候と肥沃な大地から「オーストリアの緑の心臓」と呼ばれ、国内随一の食材の宝庫として知られています。その州都であるグラーツは、まさに「美食の都(Genuss Hauptstadt)」。新鮮な食材が集まり、伝統的な知恵と新しい感性が融合した、豊かで奥深い食文化が花開いています。
“緑の黄金” パンプキンシードオイルの魔法
グラーツの食を象徴する存在、それが「パンプキンシードオイル(Kürbiskernöl)」です。シュタイヤマルク州で栽培される特別な品種のカボチャの種を、ローストしてから圧搾して作られるこのオイルは、深緑色とも黒に近い緑色とも言える独特の色合いをしています。
その香りは、ナッツのように香ばしく、濃厚で、一度嗅いだら忘れられないほど個性的。スプーン一杯を口に含むと、凝縮された豆やナッツのような旨味が口いっぱいに広がります。このオイルは加熱には向かず、主にサラダのドレッシングとして、あるいはスープやデザートの仕上げに数滴たらして使われます。
例えば、現地のレストランでサラダを頼むと、ほぼ間違いなくこのオイルを使ったドレッシングがかかっています。シンプルなグリーンサラダが、パンプキンシードオイルとヴィネガー、塩だけで、驚くほど深みのある一皿に変わるのです。また、バニラアイスクリームにこのオイルをたらして食べるのも、地元では定番のスタイル。アイスの甘さとオイルの香ばしさが絶妙にマッチし、意外な美味しさに目を見張るはずです。
その栄養価の高さと希少性から、「緑の黄金」とも呼ばれるこのオイルは、グラーツ土産の筆頭。市場や専門店で、様々な生産者のオイルを試飲しながら、お気に入りの一本を見つけるのも楽しい体験です。
活気に満ちた市民の台所、カイザー・ヨーゼフ広場の市場
グラーツの食文化を肌で感じるなら、市場(マルクト)を訪れるのが一番です。旧市街の東側、オペラ座の近くにあるカイザー・ヨーゼフ広場(Kaiser-Josef-Platz)で開かれる朝市は、グラーツで最も大きく、活気に満ちた市場です。
平日の午前中から土曜の昼過ぎまで、広場には周辺の農家が直接持ち込んだ、色とりどりの新鮮な野菜や果物がずらりと並びます。太陽をたっぷり浴びて真っ赤に実ったトマト、ずっしりと重いカボチャ、艶やかなリンゴ、そして季節ごとのハーブや花々。そのどれもが生命力にあふれ、見ているだけで元気をもらえます。
生産者のおばあちゃんが、笑顔で自慢の野菜について語ってくれたり、試食を勧めてくれたり。そんな温かい交流も市場の醍醐味です。ここでは、先述のパンプキンシードオイルはもちろん、自家製のハムやソーセージ、チーズ、ジャム、蜂蜜、そしてシュタイヤマルク州名産の「ケーファーボーネン(Käferbohnen)」という大きな斑点模様のインゲン豆など、あらゆる地元の名産品が手に入ります。
市場の一角にある屋台で、焼きたてのパンや地元のチーズを買い、広場のベンチで朝食にするのも最高の贅沢。人々のざわめき、野菜の土の匂い、花の香り。カイザー・ヨーゼフ広場は、まさにグラーツの胃袋であり、人々の暮らしが息づく場所なのです。
伝統と革新が融合するレストラン
美食の都グラーツには、あらゆるタイプの食事が楽しめるレストランが揃っています。居心地の良い家庭的なお店から、洗練されたファインダイニングまで、その選択肢は実に豊かです。
伝統的なシュタイヤマルク料理を堪能
まずは、この土地ならではの伝統料理を味わってみましょう。「ブッシェンシャンク(Buschenschank)」と呼ばれる、ワイン農家が経営する居酒屋スタイルのレストランでは、自家製ワインとともに、「ブレットルヤウゼ(Brettljause)」という盛り合わせプレートが楽しめます。木の板の上に、様々な種類のハムやサラミ、パテ、チーズ、ピクルス、そしてパンプキンシードオイルがたっぷりかかったケーファーボーネンのサラダなどが盛り付けられた、素朴ながらも滋味深い一皿です。
また、グラーツのレストランでぜひ試したいのが「バックヘンドル(Backhendl)」。これは鶏肉のフライで、ウィーンのシュニッツェルと並ぶオーストリアの代表的な肉料理です。カリッと揚げられた衣とジューシーな鶏肉の組み合わせは、ビールや白ワインとの相性も抜群です。
モダンな空間で楽しむ創作料理
伝統を重んじる一方で、グラーツでは新しい食の潮流も生まれています。地元の旬の食材を使いながらも、モダンな調理法や国際的なエッセンスを取り入れた、創造性あふれるレストランが次々と登場しています。
旧市街の歴史的な建物をリノベーションしたスタイリッシュな空間で、シェフの感性が光るコース料理を味わう時間は、旅の特別な思い出になるでしょう。パンプキンシードオイルを泡状のソースにしたり、伝統的な食材を意外な組み合わせで提供したりと、そのプレゼンテーションはもはやアートの域。予約が必須の人気店も多いので、訪れる際は事前のリサーチをおすすめします。
ウィーンだけじゃない、グラーツのカフェ文化
オーストリアといえば、ウィーンのカフェハウス文化が有名ですが、グラーツにも居心地の良いカフェ(Kaffeehaus)がたくさんあります。朝、新聞を広げながらメランジェ(オーストリア風カプチーノ)をすする紳士、午後のひととき、ケーキとおしゃべりを楽しむマダムたち。カフェは、グラーツの人々にとって生活の一部です。
創業100年を超える老舗カフェでは、ハプスブルク時代にタイムスリップしたかのような優雅な雰囲気の中で、自家製ケーキやアプフェルシュトゥルーデル(リンゴのパイ)を味わうことができます。一方で、若者が集まるお洒落なカフェでは、スペシャルティコーヒーや自家焙煎の豆にこだわった一杯が楽しめます。
散策に疲れたら、お気に入りのカフェを見つけて一休み。窓の外の景色を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを味わう。そんな何気ない時間こそが、旅の豊かさを実感させてくれる瞬間なのかもしれません。
宇宙と歴史の交差点へ エッゲンベルク城の誘い
グラーツ旧市街からトラムに乗って西へわずか15分。住宅街の中に突如として現れる広大な緑の敷地と壮麗な宮殿、それがエッゲンベルク城(Schloss Eggenberg)です。旧市街とともにユネスコ世界遺産に登録されているこの城は、単なる美しいバロック様式の宮殿ではありません。その設計には、宇宙の調和と時間の流れを表現するという、壮大で哲学的な思想が込められているのです。
宇宙の調和を体現した壮麗な宮殿
この城を建設したのは、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の宰相として絶大な権力を誇った、ハンス・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルク。彼は当代きっての知識人であり、天文学や占星術にも深い造詣がありました。彼は、混沌とした三十年戦争の時代に、自らの居城を「調和のとれた宇宙の縮図」として表現しようと考えたのです。
その思想は、城の設計の隅々にまで徹底されています。
- 4つの塔: 城の四隅にそびえる塔は、春夏秋冬の四季を表しています。
- 365の窓: 1年(グレゴリオ暦)の日数と同じ数の窓が、城全体に配置されています。
- 52の部屋と24の豪華な広間: 1年の週の数(52週)と1日の時間(24時間)に対応しています。
- 12の門: 1年の月(12ヶ月)を象徴しています。
城の中心には、「惑星の間(Planetensaal)」と呼ばれる豪華絢爛な大広間があります。天井や壁には、黄道十二宮と7つの惑星(当時知られていた太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)が、神話の登場人物とともに見事なフレスコ画で描かれています。この部屋こそが、エッゲンベルク城という小宇宙の中心、すなわち太陽なのです。
ガイドツアーに参加して各部屋を巡ると、その一つ一つに込められた意味や、見事な装飾、当時の貴族の暮らしぶりについて詳しく知ることができます。日本の伊勢物語を題材にしたとされる部屋もあり、遠い東洋への憧れが感じられるのも興味深い点です。エッゲンベルク城は、建築という形で表現された、壮大な宇宙論であり、時間の哲学なのです。
時を忘れる庭園散策と孔雀との出会い
城を取り囲む広大な庭園もまた、見逃せない魅力の一つです。もともとはイタリア式やフランス式の整形庭園でしたが、19世紀にイギリス式の風景式庭園へと姿を変えました。起伏のある芝生の丘、巨大な古木、そして静かな池。計算され尽くした自然の美しさが広がる庭園は、散策するだけで心が安らぎます。
そして、この庭園のアイドル的存在が、自由に闊歩する孔雀たちです。優雅に羽を広げる姿は、まさに宮殿の庭にふさわしい光景。人懐っこい彼らは、時折、美しい鳴き声を響かせながら、訪問者たちを迎えてくれます。
庭園の奥には、バラ園や「惑星の庭」と名付けられたテーマガーデンもあり、季節ごとに異なる花々が咲き誇ります。城の壮麗な建築と、庭園ののどかな風景のコントラストは、訪れる者に安らぎと感動を与えてくれます。ピクニックシートを広げて、のんびりと過ごす地元の家族連れの姿も多く見られ、この場所が市民にとっても大切な憩いの場であることが伝わってきます。
内部に眠る珠玉のコレクション
エッゲンベルク城の敷地内には、シュタイヤマルク州の歴史や文化を知ることができる、いくつかの重要な博物館が併設されています。これらは「ヨアネウム普遍博物館」の一部であり、城の入場券で合わせて見学することができます。
- アルテ・ギャラリー(Alte Galerie): 中世からバロック時代にかけての、シュタイヤマルク州ゆかりの絵画や彫刻を収蔵しています。特に、ゴシック期の祭壇画のコレクションは必見です。
- 考古学博物館(Archäologiemuseum): シュタイヤマルク州で発掘された、先史時代からローマ時代、中世初期にかけての考古学的な遺物を展示しています。中でも、約2700年前に作られたとされる青銅製の「シュトレットヴェークの祭祀の車」は、ケルト文化を代表する至宝として世界的に有名です。
- コイン収集室(Münzkabinett): 古代から現代に至るまで、膨大な数のコインやメダルが収蔵されており、貨幣の歴史をたどることができます。
宮殿の壮麗な建築と庭園の美しさ、そして博物館の知的な興奮。エッゲンベルク城は、丸一日かけても遊び尽くせないほどの魅力に満ちた、まさに宇宙と歴史の交差点なのです。旧市街の喧騒から少し離れて、この静かで壮大な世界に身を浸してみてはいかがでしょうか。
グラーツ滞在をさらに豊かにするヒント
グラーツの旅をより快適で、思い出深いものにするために、いくつかの実用的な情報とヒントをご紹介します。交通手段から季節ごとの楽しみ方まで、少しの知識があなたの旅を大きく変えるかもしれません。
街を網羅する公共交通トラムを使いこなそう
グラーツ市内の移動には、トラム(路面電車)が非常に便利です。旧市街の中心部は徒歩で十分に散策できますが、エッゲンベルク城や少し離れた地区へ足を延ばす際には、トラムが頼もしい味方になります。
路線網はシンプルで分かりやすく、主要な観光スポットのほとんどをカバーしています。嬉しいことに、旧市街の中心エリア(ハウプト広場からヤコミニ広場までの区間など)は「アルトシュタット・トラム(Altstadt-Tram)」として運賃が無料になっています。気軽に乗り降りして、街の景色を車窓から楽しむのも良いでしょう。
一日乗車券(24-Stunden-Karte)や、複数日有効のウィークリーチケットなどを購入すれば、さらにお得に市内を移動できます。チケットは停留所に設置された券売機や、タバコ屋(Tabak-Trafik)で購入可能です。乗車時には必ず刻印機で打刻するのを忘れないようにしましょう。
季節ごとの楽しみ方
グラーツは、どの季節に訪れてもそれぞれの魅力がありますが、季節ごとの特色を知っておくと、旅の計画が立てやすくなります。
春から夏へ、生命力あふれる季節
春になると、シュロスベルクの丘や公園が一斉に芽吹き、街は柔らかな緑と花の色に包まれます。カフェのテラス席がオープンし、人々は太陽の光を浴びながら、開放的な季節の到来を喜びます。
夏は、街が最も活気づく季節です。ジャズフェスティバルや野外コンサートなど、様々なイベントが開催されます。ムーア川のほとりで涼んだり、郊外のワイナリーを訪れたりするのもおすすめです。日差しは強いですが、湿度が低いため比較的過ごしやすく、夜も遅くまで明るいので、一日を長く楽しむことができます。
秋の収穫祭とワインの魅力
秋は、美食の都グラーツが最も輝く季節と言えるかもしれません。シュタイヤマルク州ではブドウやリンゴ、カボチャの収穫が最盛期を迎え、街は収穫祭のムードに包まれます。市場には旬の食材が溢れ、レストランでは秋限定のメニューが登場します。
この時期にぜひ楽しみたいのが、「シュトゥルム(Sturm)」と呼ばれる発酵途中のワインです。ブドウジュースのような甘さと、微炭酸の爽やかさが特徴で、アルコール度数は低め。秋にしか味わえない、この土地ならではの味覚です。近郊のワイン街道を巡り、紅葉とワインを楽しむのも最高の体験です。
幻想的な冬のクリスマスマーケット
冬のグラーツは、ロマンチックな光に包まれます。11月下旬からクリスマスにかけて、市内の広場という広場でクリスマスマーケット(Christkindlmarkt)が開かれます。
ハウプト広場の市庁舎には巨大なアドベントカレンダーが投影され、ランドハウスの中庭には氷でできた精巧なキリスト降誕飾りが登場します。それぞれのマーケットは個性豊かで、伝統的なオーナメントを売る店、温かいグリューワイン(ホットワイン)や焼き栗の屋台などが軒を連ねます。寒さの中で飲むグリューワインの温かさと甘い香りは、忘れられない思い出になるでしょう。雪が積もれば、赤い屋根の街並みはまるでおとぎ話の世界のような美しさを見せてくれます。
どこに泊まる?エリア別おすすめ滞在スタイル
グラーツでの滞在をどこにするかは、旅のスタイルによって決まります。
- 旧市街エリア: とにかく観光に便利な場所が良いという方には、旧市街のホテルがおすすめです。シュロスベルクや大聖堂、主要な美術館へも徒歩圏内。夜のライトアップされた街並みを散策したり、朝一番に静かな石畳の道を歩いたりできるのは、このエリアに滞在する特権です。歴史的な建物を改装した趣のあるホテルも多くあります。
- 中央駅周辺エリア: 鉄道でグラーツに到着する方や、近郊への日帰り旅行を計画している方には、中央駅(Hauptbahnhof)周辺が便利です。旧市街へもトラムですぐにアクセスでき、比較的リーズナブルな価格のホテルが見つかりやすいエリアでもあります。
- 大学周辺・デザイン地区: クンストハウスやムーアインゼルがあるムーア川西岸や、グラーツ大学周辺のエリアは、よりモダンで若々しい雰囲気が漂います。お洒落なカフェやバー、デザインショップが多く、地元の若者の日常に近い滞在を楽しみたい方におすすめです。スタイリッシュなデザインホテルやアパートメントタイプの宿泊施設も増えています。
どのエリアを選んでも、グラーツのコンパクトな街の規模と優れた公共交通網のおかげで、快適な滞在が約束されます。あなたの旅の目的に合わせて、最高の拠点を見つけてください。

